提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年8月31日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その91



110830

言志録 第91条




人の月を看るは、皆徒(いらず)らに看るなり。
須らく此に於て宇宙窮(きわま)り無きの概(がい)を想うべし。
〔乙亥中秋月下に録す〕


一斎先生44歳の年の旧暦8月15日とのこと。

月見は、ただ漠然と見るだけでなく、
感傷的にもなり、花鳥風月を愛でる日本人ならではの情景である。
それは「もののあはれ」でもあるだろうが、
一斎先生は、そこに大自然の真理を感受すべし、と言われている。
「太上は天を師と」(第2条)するのである。

また、それは真理を窮めることの果てし無さ、
宇宙同様の茫漠さを思い知ることにもなる。
それは、月面に降り立っても、月の砂を研究しても、
極め尽せるものではないのではないだろうか。

余分だが、
山本夏彦氏
「何用あって月世界へ?/月は眺めるものである。」
を思い出す。
たとえ月面に降り立っても、
大いなる宇宙真理への敬意と、己の無力さの自覚が必要と思う。

わたしの(好きな)言志四録 その90



110829


言志録 第90条




已(すで)に死するの物は、方(まさ)に生くるの用を為し、
既に過ぐるの事は、将に来らんとするの鑒(かん)を為す。


死んで死なず、生きるを生かし、
過ぎて去らず、未来に現われる。

わたしの(好きな)言志四録 その89



110828

言志録 第89条




当今の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。
後世の毀誉は懼る可し。
一身の得喪は慮るに足らず。
子孫の得喪は慮る可し。



大所高所から見ることができること、
着眼のレベルの高さとは、
今ここでの、この自分の身からの発想ではないのだ。

今を貫く、過去から将来への、時の連なりから見えること。
自身の心体をバトンランナーにする、先祖から末代までの命の連なりに想いを致すこと。

判断の基準が違うのだ。

わたしの(好きな)言志四録 その88



110827

言志録 第88条




著眼(ちゃくがん)高ければ、則ち理を見て岐せず。


時に、一斎先生は、このように簡便に言い切ってしまわれる。

物の道理が見えているので、別れ道のように見えていても、
最終的なゴールが一緒であると見抜くこともできる。
迷わずに済むのは当然だが、別の道を進んでいるようでも、
目指すところが同じかどうかこそが問題なのだ。

それがわかるためにも、
目線の高さが問われる。
どこまで高いレベルの視野を手に入れることができるかが、
その人の人生の修行・修養の勝負である。

わたしの(好きな)言志四録 その87



110826

言志録 第87条




托孤の任に当たる者は、孤主年長ずるに迨(およ)べば、
則ち当に早く権を君に還し、以て自ら退避すべし。
乃ち能く君臣両(ふた)つながら全(まった)からん。
伊尹(いいん)曰く、「臣、寵利を以て成功に居ること罔(な)かれ」と。
是れ、阿衡が実践の言にして、万世大臣の亀鑑なり。


第86条の有徳の大臣の鑑が、
殷の湯王に仕えた伊尹であるという。
「君臣両つながら全からん」
君主も、家臣も、そして人民も、
各々の天命を、使命を、全うできることの価値を思う。

わたしの(好きな)言志四録 その86



110825

言志録 第86条




大臣の権を弄ぶの風は、多く幼主よりして起る。
権一たび下に移れば、復た収む可からず。
主、年既に長ずれども、仍(な)お虚器を擁し、
沿襲して風を成せば、則ち患、後昆に遺(のこ)る。
但だ大臣其の人を得れば、則ち独り此の患無きのみ。


よほど正しい道の行われている国で、
大臣たる天命に忠実な家臣に恵まれていなければ
一度、政権を手にした大臣が、
成人した君主に政権を譲渡することは、
人情からは考えにくい。
しかし、
天意にかなう政権であれば、
それを支える有徳の大臣がでるはずである。

わたしの(好きな)言志四録 その85



110824

言志録 第85条




邦、道有れば、則ち君は大臣と権を譲る。
権は徳に在りて力に在らず。
邦、道無ければ、則ち君は大臣と権を争う。
権は力に在りて徳に在らず。
権、徳に在れば、則ち権、上に離れず。
権、力に在れば、則ち権、遂に下に帰す。
故に政(まつりごと)を為すには唯だ徳礼を以てするを之れ尚(とう)としと為す。


分かりやすい対比で、
ここでは、君に在るべき権が、臣にあることの非を、
政権が、力による場合には、徳=道にもとるものであると説く。
これは裏返すと、
徳=道にもとづかない政治は、その政権を力で争わざるを得ないことになる。
政権が転覆する時には、それ相応の必然があるということか。

わたしの(好きな)言志四録 その84



110823

言志録 第84条




下情は下事と同じからず、
人に君たる者、下情には通ぜざる可からず。
下事には則ち必ずしも通ぜず。


それぞれの立場・地位に応じた、特殊な技能・技術、ノウハウはある。
上に立つ者は、自ら、それらに通じている必要は必ずしもないが、
それぞれの想い、感情については、
心を配る必要がある。

人は「情」で動く現実を直視すべきと。

わたしの(好きな)言志四録 その83



110822

言志録 第83条




大臣の言を信ぜずして、左右の言を信じ、
男子の言を聴かずして、婦人の言を聴く。
庸主皆然り。


大臣や男子は、その人の地位・立場から、その責任において意見する。
左右の者・婦人の意見に、その覚悟のあることは少ない。
両者の意見を少なくとも聴く必要はあるし、信じることも必要だが、
前者を蔑ろにすることは、
主人たる自らの立場そのものを蔑ろにすることになるのではないか。
凡庸な君主はそうだというのだ。
自らの天から授かった命を蔑ろにする。
それは自らを支えてくれる立場の人もまた天命であることを知らず、
蔑ろにしてしまう。

2011年8月21日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その82



110821

言志録 第82条




人主、事毎に私(ひそか)に自ら令すれば、則ち威厳を少(か)き、
有司を歴(ふ)れば則ち人之を厳憚す。


通例は逆に考えるのではないか。
つまり、リーダーの言うことを、
その人の言うこと「なら」と従う時の権威は、そのリーダーにある。
集団の大きさを問わず、
リーダーの言=意思が、組織的に分担されて、
伝えられる時、いちいちそれがリーダーの意思かどうか不安になる。
人情とはそういうものだ。

実はちがうのではないか? そんなことではいけないのではないか。
どのレベルのリーダーであれ、そのリーダーの私的な思いではなく、
その意思が、誰が言っても、その通り伝わるレベル、
人ではない、天が命じているのだと、思わせる権威が伝わる集団。
その天のレベルの意思を、
人情に逆らわずに、伝えることが リーダーには必要だということか。

わたしの(好きな)言志四録 その81



110820

言志録 第81条




人君閨門の事、其の好たいは、
外人能く識って窃(ひそ)かに之を議す。
故に風俗を正し、教化を敦(あつ)くせんと欲するには、
必ず基(もとい)を此に起こす。


これ、いい世の中にしたい、
いい会社に、いい地域にしたいという思いを持つ時、
集団のトップならずとも、
常に心しておかねばならない。
「基」とは、自己であり、
自己の営む家庭生活である。
そこを正さずして、
先には進めないのだ。

2011年8月19日金曜日

わたしの(好きな)言志四録 その80



110819

言志録 第80条


邦を為(おさ)むるに手を下す処は、閫内(こんない)の治に在り。
淫靡(いんび)を禁じ、冗費を省くを、最も先務と為す。


ひとこと、

修身斉家治国平天下。

つまり、

自分自身を根本から治めることを通してしか、
世の為、人の為になることなど、
到底成し遂げられないということか。

わたしの(好きな)言志四録 その79


110818

言志録 第79条

聡明にして重厚、威厳にして謙沖。
人の上(かみ)たる者は当に此の如くなるべし。



聡明さが、軽さにならず、
威厳ある姿が、勿体ぶった態度にならない。

重々しさが、愚鈍に見えず、
謙虚なこだわりのなさが、重心のブレにならない。

四十にして惑わず、としても、
これは、容易でない仕業だ。

わたしの(好きな)言志四録 その78


110817

言志録 第78条


一氣息、一笑話も、皆楽なり。
一挙手、一投足も、皆礼なり。



それぞれの人が、
外に発するもの、ひとつひとつを「楽」として表出し、
身の所作の、ひとつひとつを「礼」として慎重に動作する。

日々の在り方が、すべて「礼楽同一の妙」につながり得ること。

わたしの(好きな)言志四録 その77


110816

言志録 第77条


古楽は亡びざる能わず。
楽は其れ何の世にか始まりし。果して聖人より前なる歟。
若し聖人に待つこと有って而して後作りしならんには、則ち其の人既に亡して、
而も其の作る所、安んぞ能く独り久遠を保せんや。
聖人の徳の精英、発して楽と為る。
乃ち之を管絃に被らせ、之を簫磬(しょうけい)に諧(ととの)え、
聴く者をして之に親炙するが如くならしむ。
則ち楽の感召にして、其の徳の此に寓するを以てなり。
今聖を去ること既に遠く、之を伝うる者其の人に非ず。
其の漸く差繆を致し、遂に以て亡ぶるも亦理勢の必然なり。
韶の斉に伝わる、孔子深く心に契(かな)えり。然れども恐らくは已に当時の全きに非じ。
但だ其の遺音尚お以て人を感ずるに足りしならんも、而も今亦遂に亡びたり。
凡そ天地間の事物、生者は皆死し、金鉄も亦滅す。
況や物に寓する者能く久遠を保せんや。
故に曰く古楽亡びざる能わずと。
但だ元声太和の天地人心に存する者に至りては、
則ち聖人より前なるも、聖人より後なるも、未だ嘗て始終有らず。
是れも亦知らざる可からざるなり。


古の聖人作の古楽は、
古楽器の調べに、聖人の徳を乗り移らせ、
その徳を 聴く人々に感化する。
しかし
天地間の事物同様に、その古楽も滅びる定めを免れることはできない。
永遠の物がないように、古楽も永遠のものではない。
これは真実である。

そして同時に、
天地や人の心の中(真心=魂)にある、
「元声太和」は、
始まりも終わりもないもの、
つまり、永遠に有り続けていることも、また、真実である。

天地間の事物にとらわれることなく、
そこにかわらずに有り続けるものを、
感受できることこそが大切であると。

わたしの(好きな)言志四録 その76


110815

言志録 第76条


人君当に士人をして常に射騎刀矟の技に遊ばしむべし。
蓋し其の進退、駆逐、坐作、撃刺、人の心身をして大に発揚する所有らしむ。
是れ但だ治に乱を忘れざるのみならず、
而も又政理に於て補い有り。


泰平の江戸期において、わけても文化爛熟の時期に於いて
武士に武芸を奨励する理由が、
心身を大いに発揚するところ=楽に求められているところ、
しかも、それら武芸が、礼を重んずるものであることにも着目したい。
礼楽合一がここでも希求されている。

2011年8月18日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その75


110814

言志録 第75条


人心は歓楽発揚の処無かる可からず。
故に王者の世に出ずる、必ず楽を作りて以て之を教え、人心をして寄する所有り、
楽しんで淫するに至らず、和して流るるに至らざらしむ。
風移り俗易りて、斯に邪慝無し。
当今伝うる所の雅俗の楽部は、並に風を移し俗を易うるの用無しと雖も、
而も士君子之を為すとも、亦不可なる無し。
坊間の詞曲の如きに至っては、多くは是れ淫哇巴兪欠(いんあいはゆ)、損有りて益無し。
但だ此を捨てては則ち都鄙の男女、寄せて以て歓楽発揚す可き所無し。
勢も亦之を繳停(しゃくてい)す可からず。
諸を病に譬うるに、発揚は表なり。抑鬱は裏なり。
表を撃てば則ち裏に入る、救う可からざるなり。
姑(しばら)く其の表を緩くして、以て内攻を防ぐに若かず。
此れ政を為す者の宜しく知るべき所なり。



歓楽発揚を必要とするのが人情である。
歓楽発揚を抑える、無くしてしまうと、
邪慝抑鬱になるのも人情である。
内攻する邪慝抑鬱は人心の病である。
人の世の、社会の病である。

楽は、人心を歓楽発揚するゆえ、
社会の病を未然に防ぐことができるという。
宮廷音楽でも巷間の戯れ歌でも楽は楽であるのだ。
人を懽欣鼓舞し暢発する楽の不可欠なこと(第72条)斯くの如し。

また、ここで、王者の楽を
「風を移し、俗を易える」ものとしていることは、
礼楽合一の妙をそこに見出そうとしているものとして注目しておきたい。

2011年8月13日土曜日

わたしの(好きな)言志四録 その74



110813

言志録 第74条




治安日に久しければ、楽時漸く多きは、勢(いきおい)然るなり。
勢の趨(おもむ)く所は即ち天なり。
士女聚(あつま)り懽(よろこ)びて、飲讌歌舞(いんえんかぶ)するが如き、在在に之れ有り。
固より得て禁止す可からず。
而るを乃ち強いて之を禁じなば、則ち人氣抑鬱して発洩する所無く、
必ず伏して邪慝と為り其の害殊に甚しからん。
政(まつりごと)を為す者但だ当に人情を斟酌して、之が操縦を為し、
之を禁不禁の間に置き、其れをして過甚に至たらざらしむべし。
是れも亦時に赴くの政然りと為す。


天下泰平、安逸をむさぼる世の中で、
楽しみに耽ることは、人のもつ氣の勢いからも
天意にかなうものであるという。
ただし、まつりごとを為す者が心得なければならないことは、
人情が、行き過ぎないようにすること。

折しも、文化文政の爛熟期の只中での言で、
世の中が勢いづいている時であったと思う、その時、
世情の勢いの上下を、どうコントロールするかが、
政治の時勢への対処の勘どころであるという。
同様に、第84条では、下情に通ぜざるべからずと。

自らの事を省みても、人情の勢いにまかせてやることの
後悔の多いこと身に覚えあり、
氣の勢いの上下に乗じて、
人情の振幅にどう対処するかが、修身のキモかもしれない。

わたしの(好きな)言志四録 その73



110812

言志録 第73条




古(いにしえ)は方相氏儺(だ)を為す。
熊皮(ゆうひ)を蒙り、黄金四目(もく)玄衣朱裳、
戈を執り盾を揚げ、百隷を帥(ひき)いて之を欧(う)つ。
郷人(きょうじん)群然として出でて観る。
蓋し礼を制する者深意有り。
伏陰愆陽(ふくいんげんよう)、結ばれて疫氣と為る。
之を駆除せんと欲するには、人の純陽の氣に資(と)るに若くは莫し。
方相氣を作(な)して率先し、百隷之に従う。状、恠物(かいぶつ)の若く然り。
闔郷(こうきょう)の老少、雑遝(ざっとう)して聚(あつま)り観て、且つ駭(おどろ)き且つ咲(わら)う。
是に於て陽氣四発し、疫氣自ら能く消散す。
乃ち闔郷の人心に至りても、亦因て以て懽然として和暢し、復た邪慝の内に伏鬱する無し。
蓋し其の戯に近き処、是れ其の妙用の在る所か。


古代中国周の時代から、鬼やらいの儀式は方相氏という役人が執り行ったていたという。
鬼に負けぬ怪物のような姿でもって、その地域の悪疫を追い払う儀礼は、
陰りのない、腹の底からの純粋な陽氣を発散させることで、
地域の人々の心の健全さを保つという。

そこには、伸びやかな歓喜を起こす「楽」を、
一定の厳粛さ、決まり事の中で心身を引き締める「礼」の中に現出させる、
礼楽が合一した妙味があり、これがこのような儀礼に込められた意味であるとのこと。

ここでとりわけ着目されているのは、
陽氣も陰気も、時と場所を選びながら、
陽は陽らしく、陰も陰らしく?あれということである。
陽と陰の調和・バランスが大切なのだ。
陰も鬱も邪も、それそのものが悪であるわけでなく、
伏せられたり、隠されたりすることで、
(同様に、陽も季節外れなら、悪影響を及ぼす)
悪影響を人心に及ぼす、ひいては、集団や社会に悪影響を及ぼす。


2011年8月11日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その72



110811

言志録 第72条


人をして懽欣鼓舞(かんきんこぶ)して
外に暢発(ちょうはつ)せしむる者は
楽(がく)なり。
人をして整粛収斂(せいしゅくしゅうれん)して
内に固守せしむる者は
礼なり。
人をして懽欣鼓舞の意を整粛収斂の中(うち)に寓せしむる者は、
礼楽合一の玅(みょう)なり。


現在の私の世話になっている会社では、
2つのことに取り組んでいる。

ひとつは「環境整備」で、整理・整頓・ルール化、
そしてコスト管理である。
内へ内へと意識を絞りこみながら、体質としては筋肉質をめざし、
最小コストでの最大売り上げを目指すあり方だ。

今一つは、会社のメンバーやお客様への「喜びや感動の提供」の徹底化である。
自らも楽しみ、感情を表に出しながら、
他をも同じ喜びの渦に巻き込もうとする、心躍るあり方だ。

「環境整備」に取り組みながら、意識は内にこもらず、
あくまでも、お客様や他のメンバーの「喜びや感動」を志向すること。
ザッポスという企業にインスパイアされて、

まさにわが社がめざしているのは、
「礼楽合一の玅」のあり方なのだった。

2011年8月10日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その71



110810

言志録 第71条




諫(いさめ)を聞く者は、固(も)と須らく虚懐なるべし。
諫を進むる者も亦須らく虚懐なるべし。


「素直で謙虚」。
人としての宝でこれにまさるものを探すのは難しいのではないか。

「虚心坦懐」胸にも腹にも、何の一物もない状態を維持することは、
その人の修養の達成度をはかる、よい目安になるだろう。
呻吟語にも「その心をむなしうして/天下の善を容れ」とある。(110418)

諫言は、世の為、(その)人の為に為されるものであるが、
それを進言する方にも受ける方にも、器が求められる。(第37条

苦い良薬を受け入れる度量、
私心なく、その人の身になって、世の為、人の為に、尽す思いが、
人を変え、世の中を変えるのだと思う。

2011年8月9日火曜日

わたしの(好きな)言志四録 その70



110809

言志録 第70条




凡そ人を諫(いさ)めんと欲するには、
唯だ一団の誠意、言に溢(あふ)るる有るのみ。
荀(いやし)くも一忿疾の心を挾(はさ)まば、諫めは決して入らじ。


いかりやにくしみの心は、私に属する、我欲のこころ。
人を諫めることも、己を諫めることも、同じこととすれば(第69条)、
怒りや憎しみの心は自他に同時に向けられている。

求められているのは、「誠」。
これは、自他ではない、天に仕える心。(第10条

人を変えるには、天命を自覚して、
自分も同時に変えるのでなければならない。

2011年8月8日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その69



110808

言志録 第69条




己れを治むると人を治むると、只だ是れ一套事(いちとうじ)のみ。
自ら欺くと人を欺くと、亦只だ是れ一套事のみ。


他人を変えるためには、自分自身を慎み変化させなければならない。
自分が変われば、周りも変わると。

他人の身になって考える、人を先に立てて、
自らは犠牲にして。。。。。

自利利他も同じだが、この自他一套事もまた、
このような自分が先か、周りが先かというような
因果を本当に云っているのだろうか?

己れも人も、互いに連関し合っている。
というか、同時に存在している。

己のあり方は、そのまま人のあり方だと感受できること。
公と私が、矛盾せず、同じ表れであるということ。

ただ、治まった状態、欺かれた状態がある。
善の状態がある、真の状態がある、

自分だけが善であり真である、
というようなことはあり得ないということか。

虚心に己れを見て、人のあり方、全体の状態を推し量り、
あるがままに人を見、全体を見ることで、己れのあり方を反省する。

2011年8月7日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その68

110807

言志録 第68条




情に循(したが)って情を制し、
欲を達して欲を遏(とど)む。
是れ礼の妙用なり。


情も欲も、人の社会生活において
ネガティブに語られることが多いものだが、
これのない人生は考えにくいし、
人の心に活力を与えるものでもあると思う。

その情をコントロールし、その欲を抑え込むのに、
実は、「礼」が用いられているという。

情の働きは、一定の方向性があるが、
その向きに沿って従うようにすることで、情を制御する。
欲は、一定の不足感を埋めよう埋めようとするので、
その欲を満たすことで、欲の働きを止める。

情けの流れを妨げず、欠乏・不足をそのままにせず埋めようとする。
しかも、
人間として、恥ずかしくないやりかたで、
人間としての尊厳を失わない形をとるのが、
「礼」の効用であると。

だから、五常(仁、義、礼、智、信)の一つである
「礼」は、ある行動、行為の形をとるのか。

人の心が、動く状態を保ちつつ、
ある礼節にかなった、行為・行動に導いていく。

後の条文で、一斎先生は、
「楽」との対比で「礼」を語り、
また、「礼楽合一」を語る。(第72条) 

人の生き暮らす社会の活力は、
そこで生き暮らす人ひとりびとりが作り出すものである。

今年の東北のまつりをテレビで見聞きし、
「まつり」の妙用を教えられる。

2011年8月6日土曜日

わたしの(好きな)言志四録 その67

110806

言志録 第67条




利は天下公共の物なれば、
何ぞ曾(かつ)て悪有らん。
但だ自ら之を専(もっぱら)にすれば、
則ち怨を取るの道たるのみ。


自利利他がわからない。

他に利益をもたらすために、まず自らを利することか、
自らの利益のために為したことが、他を利することにもなるということか、
他の利益の為に為すことが、自分の利益にもなるということか。

自も他もない
天下公共の為と思えば、
利が悪になることもない。

なぜ利が悪になるのか。
自も他もないところ=無であり空である、
天下公共の和の状態から遠ざかるからと考える。

怨とは、和の対極の状態。
和を蝕むこころ。

自他を越えた「和」のための
自らの天命を思う。



今日は偉大なる先行者をまた知ることができた佳き日
保育支援事業をされている会社の社長ブログ


わたしの(好きな)言志四録 その66

110805

言志録 第66条


爵禄を辞するは易く、小利に動かされざるは難し。


自らの、内なる弱さに気付かせられる言葉。

勿論、「爵禄」を与えられるほどの者にならなければ、
辞すること、そのものが成り立たない。
そのような、一廉の人物だからこそ、
大向こうに見得を切る、受けを狙うことは
失うものより、得るものが多い。
如何にも脇の甘さを見透かされるようで、
真に人物たるためには、一朝一夕では難しいのだなと
思わされる。

あらためて
大学/中庸にある「慎独」の修養が必要だ。

「天知る、地知る、我知る、人知る」ー後漢書(楊震伝)
他ならぬ、「自分」が知っているのだ。

自分の数多い弱さを誤魔化さず認め、
そのひとつひとつに向き合うしかない。

2011年8月4日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その65

110804

言志録 第65条




古今姦悪(かんあく)を為すの小人(しょうじん)は、皆才、人に過ぐ。
商辛の若きは、最も是れ非常の才子なり。
微、箕、比干の諸賢にして且つ親有りと雖も、其の心を格(ただ)す能わず。
又其の位を易(か)うる能わず。
終に以て其の身を斃して、而かも其の世を殄(た)つ。
是れ才の畏るべきなり。


殷の紂王の極悪非道を詳らかにできないが、
最後には、自分自身のみならず子孫までもが断絶してしまうほどに、
才の限りを尽くして、私利私欲の恣にしたリーダーがあったとのこと。

才智に於いては、如何に優れていても、
これは「小人」である、
世の為、人の為にならない、と。

全体の為に生かされない「才」の(第64条
無念を思う。彼の天命はどこにあったのか?

己の才能を正しく活かせるようになるには、
自らの心を格すこと=修養が不可欠なのだと思う。
周りの助けも大きいが、克己にまさるものはない。

自分の力でコントロールできないほどの、
才の畏れるべきこと、故に、謙虚な者に正しく活かされるべきことを
後の世の我々に伝えるため、
その材料となることが天命だったというか?

2011年8月3日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その64

110803

言志録 第64条




才は猶お剣(つるぎ)のごとし。
善く之を用うれば、則ち以て身を衛(まも)るに足り、
善く之を用いざれば、則ち以て身を殺すに足る。


昨年のアジア大会で優勝した日本代表サッカーの
本田選手がのちに振り返って言った言葉、
「自分の個人技は
チームを勝たせることのできる個人技のレベルになっていなかった」
だからチームプレー、フォア・ザ・チームに徹したと。

自らの技を見極めることのできるほどの技術のレベルとともに、
謙虚さを感じさせられ、彼の今後の成長への期待をも抱かせてくれる言葉。

全体に役立たない技は、チームを勝たせることができないし、
その技にこだわるような選手は必要とされないから、
チームに迷惑をかけるばかりか、身をも滅ばす。

自らの才能を 私してはならない。
第61条第62条はそう伝える。
才を善く用いるとは、全体への貢献のために自らの才能を提供すること。
それによって、全体が生かされるのみならず、
個の生かされる道も、それに尽きる。

わたしの(好きな)言志四録 その63

110802

言志録 第63条




凡そ事 吾が分の已むを得ざる者に於ては、
当に之を為して避けざるべし。
已むを得べくして已めずば、これ則ち我より事を生ぜん。


自分とは、自ずから自律的に有ると同時に、
分限をもち、全体に対する部分として存在だといわれる。
まさしく、部分でありながら、果たすべき役割があり、
それは、自然な自らの働きとしてもそうであるので、
無理に止めることができないし、全うするべきものである。

自らの役目、義務から逃れようとしてはいけない。
避けてはいけない。
これが、一人ひとりのかけがえのなさでもあり、
それが、天分である所以である。使命である所以である。

その逆も真なり。
部分が全体を冒すことになる。
他のかけがえなさを侵すことになる。

起こらなくてよい問題の元である。
己れの出るべきところ、控えるところを弁えることが必要だ。

2011年8月1日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その62

110801

言志録 第62条




凡そ人と語るには、須らく渠(かれ)をして其の長ずる所を説かしむべし。
我に於て益有り。


第61条で「語るべし」とされる「一芸の士」。
世の為、人の為に語るべし。

そして聞き手はどうか。
語り手が、自らの長所、
すなわちその人の使命、分限を語ることのできるように、
聞く態勢をもって臨むべし。
聞く耳を持って、その人が自らの天命を語ることができ、
その使命を全うできるように。

話し上手は聞き上手と言われるが、
決して人の愚痴を聞いてやることが益になるとは言えない。
それよりも「長ずる所」を語らせる、
その人の使命に気づかせること、そのことが、

世の為、人の為となる。

我にとっての益は言うに及ばず。