提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2012年3月24日土曜日

早晨希望に目覚め 深夜感謝に眠れたら

表題は、本多静六氏の著書の中からいただき、
小学校のPTAの広報誌に寄稿した。
といっても、歌をそのまま写しただけだ。
(引用としては扱ってもらえないかもしれない。)


早晨希望に目覚め
   深夜感謝に眠れたら
       副会長 渡邊 和隆
 毎日の経験や出会いと想いを…
♪今日の嬉しかった出来事に
こっそりガッツポーズして
今日の失敗しちゃったことに
少しだけしょんぼりして
今日の仲良くできたあの子に
こっそりアリガトウ言って
今日の気まずくなったアイツに
つぶやくゴメンナサイ♪
 与えられたものと笑顔で受け…
♪今日の楽しかった時間は
自分へのご褒美だし
今日の悲しかった時間は
明日への宿題だよ
  今日を過ごしたすべての人が
大切な友達だし
わかりあえてもすれちがっても
明日また会えるんだよ♪
 すべて明日を生きる糧にして…
♪色んな事があるけどどれも
これもそれは今日のプレゼント
明日も元気に頑張るための
エネルギー源 だ・か・ら!♪
 「歌」に素直に涙できるように…
♪感謝して感謝して
一日を終わろうよ♪
感謝して一日を終わろうよ。
(中山真理「帰りの会のサンバ」より)

もう5年以上前と思うが、
初めて子供達(小学3年生くらいだったか?)の歌うのを聞かされたとき、
不覚にも涙が流れるのを止めることもできず、
自分のそれまでの在り方を反省させられ、また、
ココロの襞にたまっていたいろいろな物どもを洗い流してくれていると、
感じる瞬間を、その時、いただいた。

この春から一年間、私自身のPTA活動の テーマにさせていただくつもり。
いや、生涯のテーマか。

この「帰りの会のサンバ」の中山真理さんには、
他にもこんな作品(合唱曲)がある。


「おそすぎないうちに」  作詞作曲 中山真理 

なくしてしまってから その大切さに気づいて
悔やんだり 悲しんだりしても 遅すぎるよ

もしかしたら一番 この世で大切なものは
普段あまりに身近すぎて 気にもとめていないかも

今あるすべてのものは あたりまえなんかじゃなく
今あるすべてのものが 奇跡的にあるとしたら
君はどうやってそれを 守るだろう

遅すぎないうちに 間に合う今のうちに
出来る限りのことをしよう
生まれて こられたお礼に

なくしてしまってから そのあたたかさに気づいて
悔やんだり 悲しんだりしても 遅すぎるよ

もしかしたら一番 この世で大切な人は
当たり前と決めつけてて いると疑わないかも

生きてるすべての人は なんとなくなんかじゃなく
生きてるすべての人が ぎりぎり生きてるとしたら
君はどうやってそれを 愛すだろう

遅すぎないうちに 間に合う今のうちに
できる限りのことをしよう
生まれて こられたお礼に



その「できる限りのこと」を毎日毎日やりつづけることで、
「希望に目覚め」
「感謝に眠れる」
日々を過ごすことができるだろうか。

2011年12月5日月曜日

石重し。故に動かず。根深し。故に抜けず。 ~大湫の二十二夜様の今後について~

111127

広報おおくて12月号(通算305号)用

石重し。故に動かず。根深し。故に抜けず。
~大湫の二十二夜様の今後について~

宗昌禅寺坐禅会世話人 渡邊 和隆

犬山市の明治村で毎日曜日に夏目漱石邸にいらしゃいます。


今年は文化祭の日の晩に開催されました。宿場修景の一環のおもだか屋の板塀完成の記念行事でした。市まちづくり担当課のご出席もいただき、文化祭に引き続いて、お茶の会の皆さんの呈茶ではじまり、毎回名古屋から薩摩琵琶伝承者の井村右水さんの琵琶弾奏、宿場の通りを竹灯籠が照らしました。ご尽力いただいた皆さん、ご参加いただいた皆さんに感謝申し上げます。



二十二夜様のお立ち待ちは、近在の地域でも大湫でも五十年ほど前までは行われていたのでしょうか。地域の年中行事の再生復活の試みとして二〇〇四年開宿四百年記念の前年のプレイベントがはじまりでした。宿場の風情に合わせた琵琶や抹茶、和服の婦人たち、
お立ち待ちの願掛けと地域の盛り上がりへの想いが重なり、宗昌寺に如意輪観音二体も寄進した江戸時代の女人講のごとく女性(その頃はこれが流行りでした)の力の集結で、おおくてを元気一杯に・・・そんな始まりから、今回第八回目を数えました。これまでの会場は、おもだか屋、丸森邸、宗昌寺、神田公民館、足又公民館、と特製の竹灯籠と薩摩琵琶の音が、大湫中の夜に趣きを加えています。
俊典先生の百話では、旧暦の二月と七月の二十二夜様の夜に二十二夜待ち講の主尊仏如意輪様の前に集まってお立ち待ちがなされていたようです。・・・戦争中は(「里の秋」の歌さながら)出征した兄弟父息子の無事の帰還を願掛け、また、座ってはいけないとの母の言いつけを守って、遅い月の出を往来を歩き続けて待った思い出もまだまだ残ってます。
月の出を待ちながら、皆が(それぞれの家の中でなく)外で寄り集まって、あれこれと井戸端談義のように話の花が咲いていたのでしょうか。一時期は映写会が小学校のグランドで開かれたようです。(これは夏祭りの前身だったかもしれません) 二十二夜様は、皆の娯楽の場だったのだと思います。皆が寄り集う場は、地域の娯楽の場でもあったのですね。
婦人会も、江戸期の女将さんたちの女人講から引き継がれながらも、女性の会として、解散されてしまいましたが、お寺の御詠歌や観音講、お休み処を盛りたてる皆さん、さまざまなサークル活動で、ご婦人たちの寄り集う場は引き継がれているのでしょうか。
宿場の経営が地域の一体感を否応にもたらした江戸期、農村また山林経営が生活と一体だった明治から昭和にかけても、地域が皆の娯楽を提供しながら、大家族のような(それゆえ大変だったとも思いますが)村だったのでしょうか? お蚕さんや味噌づくりも田んぼや山林の管理と同じく共同作業でしたね。
今、個人や各家庭の個別の娯楽を越えて、
地域の人が共有する娯楽の場は、あまり必要とされてないのかもしれませんが、寄り集うことも必要なくなってきてるのでしょうか?
親のみならず、子どもたちも朝から晩までよそで過ごして、夜の寝食を各家庭で過ごすだけの暮らしになっていないかと反省してます。釜戸の学校で過ごす子どもたちと、その学校を取り巻く地域を、瑞浪市の、または東濃の広がりの中でとらえて暮らすようになってきています。それだからこそ、すぐ足元の自分たちの生活環境である地域が、通過駅のようになってはならないですし、心身を育む気持いいものにするためにも、近くに住み暮らす者同士こそ、寄り集う必要は増しているようにも思います。
表題の言葉は、岩村藩出身の大儒佐藤一斎翁著「言志晩録」の言葉です(二二二条)。
「人は当に自重を知るべし」と続きますが、
自分のたちの重さ=価値=与えられた使命・天命の重大さを自覚することが必要なのだと心から思います。それは、大杉が身をもって示してくれている、時間と歴史の重みや、千三百年の根の深さへの畏敬の念でもありますし、四百年以上の先人からの営みの価値を、
この土地に住み暮らす自分たちの今の生活やあり方に見出せないかということです。
週末には、また平日でも、中山道を、大湫の宿場や里山を訪れる人たちが、お休み処やおもだか屋を遠くから訪ねて下さいます。何を求めて、交通の便がいいとも思えないのにわざわざこの地を訪ねてくるのか、そのことを改めて思いなおし、有難いと思うことができると、自分たちのこの土地への見方が変わってくると思います。
今年の薩摩琵琶で謳われた宝暦治水は薩摩人が木曽三川の分流事業に身命を捧げてくれたのでした。(十年前には、一斎さんは江戸(東京)の人だから岩村には関係ないと言われていたそうですが)岩村の一斎像は岩村に縁もゆかりもない人たちの厚志で建立され、一斎先生は岩村の偉人であるとともに日本人の誰もが敬愛しています。(恵那市では小学生も知っていることはまた素晴らしいことです。)
おらが村を日本や世界の中でみて、そこに貢献しうる何かを見いだせないでしょうか?
これは手前味噌ですが、開宿四百年を記念してその年始大寒からはじまった宗昌禅寺坐禅会も 先月で八十回を数えました。中断もありましたが毎月一回、町内だけでなく、市内や他市からもおいでいただきます。近隣地域に定期的にやっている坐禅会は多治見虎渓山とここしかありません。四百年以上の歴史ある開基保々宗昌さんの名のついたお寺が、近隣の青壮老の修養の場となっていることの意義はこれから価値が出てくると信じてます。
今月はいつもの第四土曜を変更して第三土曜の十二月十七日午後七時からです。
こちらも是非一度足をお運びください。

2011年9月11日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その103

110911

言志録 第103条




征、十が一に止(とどま)れば則ち井田(せいでん)なり。
経界、慢にせざれば則ち井田なり。
深く耕し易(おさ)め耨(くさぎ)れば則ち井田なり。
百姓(ひゃくせい)親睦すれば則ち井田なり。
何ぞ必ずしも方里九区に拘拘(くく)として、
然る後井田と為さんや。


(殷周時代の田制である)井田という税法は、
一里四方を9区に分ける形(8軒でそれを耕作し、中央の1区は年貢である)に
こだわってはならないという。
税の割合が定まり、みだりに上がらず、
区画の境界がぐらつかず、
しっかりと土地が活用され、
そこに生きる人々に争いがないことが重要であると。


3・11から半年。
何も変わらぬ現実。

そして
10年前に、アメリカで同時多発テロが起こった。(9・11)
そのことは、生業にするべく修行していた
炭焼きで夜の火の番をしていた時に、車のラジオで知った。
当時我が家にはテレビがなかった。

あれから10年か。

あの当時自分がめざしたのは、
土地を深く耕す暮らしだったと思う。

現実的には、生業としては、今も成り立たず、
変わったことは、5人から6人+1匹に家族が増えたこと、
サラリーマン生活になっていることだが、

心を深く耕すこと、人の暮らす集団の在り方の追求は、
今、10年たって、深化させてこれているとの自負はある。

あの前後でも、今でも、
実現すべきは、まさしく
「百姓親睦」
なのだと思う。

わたしの(好きな)言志四録 その102

110910

言志録 第102条




諺に云う、禍は下より起こると。
余謂う、是れ国を亡すの言なり。
人主をして誤りて之を信ぜしむ可からずと。
凡そ禍は皆上よりして起こる。
其の下より出ずる者と雖も、而も亦必ず致す所有り。
成湯之誥(こう)に曰く、
爾(なんじ)、万方(ばんぽう)の罪有るは予(わ)れ一人に在りと。
人主たる者は、当に此の言を監(かんが)みるべし。


国のトップのみならず、あらゆるリーダーにとって、
この殷王朝の湯王の勅語、「万方の罪有るは予れ一人に在り」は、
もって胆に銘ずるべき言葉である。
間違い、誤り、事故、災い、すべて原因があるとすれば、
それは上にいる者の方である。下に原因があったとすれば、
それも上がそれを助長しているか、そう仕向けているからであるという。

これは個々人についても金言である。
他に求めず、自らに原因を求め、自らからこそ変わるのだ。

わたしの(好きな)言志四録 その101

110909

言志録 第101条




或ひと疑う。
成王、周公の三監を征せしは、
社稷を重んじ人倫を軽んぜしに非ずやと。
余謂う、然らずと。
三叔、武庚を助けて以て叛けり。是は則ち文武に叛きしなり。
成王、周公たる者、文武の為に其の罪を討ぜずして、
故(ことさ)らに之を縦(ゆる)して以て其の悪に党(くみ)せんや。
即ち仍(な)お是れ人倫を重んぜしなり。


成王と周公が、叔父(周公にとっては弟)の三監(三叔)を討伐したことは、
古代中国の周王朝の初期の三監の乱
決して人倫にもとることではなく、
三叔は、父である文王や兄である武王に叛いたことになるので、
人倫を重んじた故にこそ、叔父たちを討ったのだと。

社稷=国家=領土争いであり、権力争いだが、
人倫を重んじるが為の争いだということか?

2011年9月8日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その100

110908

言志録 第100条




人君は社稷(しゃしょく)を以て重しと為す。
而れども人倫は殊に社稷より重し。
社稷は棄つ可し。
人倫は棄つ可からず。


君主は国家すなわち領地領民の為に奉仕すべき天命にそむくことはできない。
しかし、人倫すなわち人として踏み行うべき道を犠牲にしてまでも、
国家を擁護してはいけない。

人倫=五倫とは、「親・義・別・序・信」の五つで、
孟子の「教似人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」から、
儒教における五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目であるという。

この五倫を蔑ろにする国家は存在に値しないし、君主の使命は、
この五倫が通用する国家のために奉仕することである。
国家の為に五倫が存在するというより、
五倫の為にこそ国家が存在するのだ。
逆ではない。

2011年9月7日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その99

110907

言志録 第99条




性は同じゅうして質は異なり。
質の異なるは、教の由って設くる所なり。
性の同じきは、教の由って立つ所なり。


「教」ということがここで登場する。

性質としては、それぞれ同じように氣の結実した個人個人である。
天道を教えること、教育が成り立つ基盤である。

なぜ教育が必要なのか?

氣質というが、
氣の集まり結実した体質には、それぞれ違いがある。
その違いを発揮するために、教育が必要とされる。

天道を教わることで、自己の使命に氣づくのだ。