提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年9月11日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その103

110911

言志録 第103条




征、十が一に止(とどま)れば則ち井田(せいでん)なり。
経界、慢にせざれば則ち井田なり。
深く耕し易(おさ)め耨(くさぎ)れば則ち井田なり。
百姓(ひゃくせい)親睦すれば則ち井田なり。
何ぞ必ずしも方里九区に拘拘(くく)として、
然る後井田と為さんや。


(殷周時代の田制である)井田という税法は、
一里四方を9区に分ける形(8軒でそれを耕作し、中央の1区は年貢である)に
こだわってはならないという。
税の割合が定まり、みだりに上がらず、
区画の境界がぐらつかず、
しっかりと土地が活用され、
そこに生きる人々に争いがないことが重要であると。


3・11から半年。
何も変わらぬ現実。

そして
10年前に、アメリカで同時多発テロが起こった。(9・11)
そのことは、生業にするべく修行していた
炭焼きで夜の火の番をしていた時に、車のラジオで知った。
当時我が家にはテレビがなかった。

あれから10年か。

あの当時自分がめざしたのは、
土地を深く耕す暮らしだったと思う。

現実的には、生業としては、今も成り立たず、
変わったことは、5人から6人+1匹に家族が増えたこと、
サラリーマン生活になっていることだが、

心を深く耕すこと、人の暮らす集団の在り方の追求は、
今、10年たって、深化させてこれているとの自負はある。

あの前後でも、今でも、
実現すべきは、まさしく
「百姓親睦」
なのだと思う。

わたしの(好きな)言志四録 その102

110910

言志録 第102条




諺に云う、禍は下より起こると。
余謂う、是れ国を亡すの言なり。
人主をして誤りて之を信ぜしむ可からずと。
凡そ禍は皆上よりして起こる。
其の下より出ずる者と雖も、而も亦必ず致す所有り。
成湯之誥(こう)に曰く、
爾(なんじ)、万方(ばんぽう)の罪有るは予(わ)れ一人に在りと。
人主たる者は、当に此の言を監(かんが)みるべし。


国のトップのみならず、あらゆるリーダーにとって、
この殷王朝の湯王の勅語、「万方の罪有るは予れ一人に在り」は、
もって胆に銘ずるべき言葉である。
間違い、誤り、事故、災い、すべて原因があるとすれば、
それは上にいる者の方である。下に原因があったとすれば、
それも上がそれを助長しているか、そう仕向けているからであるという。

これは個々人についても金言である。
他に求めず、自らに原因を求め、自らからこそ変わるのだ。

わたしの(好きな)言志四録 その101

110909

言志録 第101条




或ひと疑う。
成王、周公の三監を征せしは、
社稷を重んじ人倫を軽んぜしに非ずやと。
余謂う、然らずと。
三叔、武庚を助けて以て叛けり。是は則ち文武に叛きしなり。
成王、周公たる者、文武の為に其の罪を討ぜずして、
故(ことさ)らに之を縦(ゆる)して以て其の悪に党(くみ)せんや。
即ち仍(な)お是れ人倫を重んぜしなり。


成王と周公が、叔父(周公にとっては弟)の三監(三叔)を討伐したことは、
古代中国の周王朝の初期の三監の乱
決して人倫にもとることではなく、
三叔は、父である文王や兄である武王に叛いたことになるので、
人倫を重んじた故にこそ、叔父たちを討ったのだと。

社稷=国家=領土争いであり、権力争いだが、
人倫を重んじるが為の争いだということか?

2011年9月8日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その100

110908

言志録 第100条




人君は社稷(しゃしょく)を以て重しと為す。
而れども人倫は殊に社稷より重し。
社稷は棄つ可し。
人倫は棄つ可からず。


君主は国家すなわち領地領民の為に奉仕すべき天命にそむくことはできない。
しかし、人倫すなわち人として踏み行うべき道を犠牲にしてまでも、
国家を擁護してはいけない。

人倫=五倫とは、「親・義・別・序・信」の五つで、
孟子の「教似人倫、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」から、
儒教における五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目であるという。

この五倫を蔑ろにする国家は存在に値しないし、君主の使命は、
この五倫が通用する国家のために奉仕することである。
国家の為に五倫が存在するというより、
五倫の為にこそ国家が存在するのだ。
逆ではない。

2011年9月7日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その99

110907

言志録 第99条




性は同じゅうして質は異なり。
質の異なるは、教の由って設くる所なり。
性の同じきは、教の由って立つ所なり。


「教」ということがここで登場する。

性質としては、それぞれ同じように氣の結実した個人個人である。
天道を教えること、教育が成り立つ基盤である。

なぜ教育が必要なのか?

氣質というが、
氣の集まり結実した体質には、それぞれ違いがある。
その違いを発揮するために、教育が必要とされる。

天道を教わることで、自己の使命に氣づくのだ。

わたしの(好きな)言志四録 その98

110906

言志録 第98条




氣に自然の形有り。
結んで体質を成す。体質は乃ち氣の聚(あつま)れるなり。
氣は人人異なり。故に体質も亦人人同じからず。
諸(もろもろ)其の思惟・運動・言談・作為する所、
各(おのおの)其の氣の稟(う)くる所に従って之を発す。
余静にして之を察するに、
小は則ち字画・工芸より、大は則ち事業・功名まで、
其の迹(あと)皆其の氣の結ぶ所の如くして、之が形を為す。
人の少長童稚の面貌よりして、而して漸く以て長ず。
既に其の長ずるや、凡そ迹を外に発する者は、一氣を推して之を条達すること、
体軀の長大にして已まざるが如きなり。
故に字画・工芸若しくは其の結構する所の堂室・園池を観るも、
亦以て其の人の氣象如何を想見す可し。


自然のあらゆる形あるものは、
「氣」の集まり結んだ結果であるという。
まず個人個人の体質そのものが、その「氣」の違いによって異なる。
その個人個人の身体の外に延長して、身体の外に発し結実するあらゆるものが、
個々人の「氣」の形結んだもの=「氣象」であることに想い致すべしと。

字はその人を表し、文は人なり、大なるものから小なる物まで、
「氣」の現れと捉えることで、
自らが、如何なる氣を集め、受け、形作って、外に発するべきかを
反省するべきだ。

2011年9月5日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その97

110905

言志録 第97条




目を挙ぐれば百物皆来処有り。
軀殻の父母に出ずるも、亦来処なり。
心に至りては、則ち来処何(いず)くにか在る。
余曰く、軀殻は是れ地氣の精英にして、父母に由って之を聚(あつ)む。
心は則ち天なり。
軀殻成って天焉(これ)に寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯(ほろ)びぬ。
心の来所は乃ち太虚是れのみ。


一斎先生の言われること、
肉体は地より、そして、心は天より来る。

身体を形作る原子・分子は、地球を形作るもの、
ひいては宇宙空間にただよう星のかけら、塵と同じもの。
それらが形を為して、父母より戴いたものと信ずることはできる。
その無機物、有機物の塊に、どこから「心」が宿るのか?

この身に天が宿るということが、どれだけ人を勇氣づけることか。
まさしく、天が我をして我ならしむるのだ(第10条)。

心は天である。空より出でて我が身に宿る。

まさしく天道をただしく発揮するために、
地道をただしく全うできるようにしなければならない。

この天道、地道、相俟つ教養人にならなければ、
吾が使命を全うすることができないことに気付きたい。

2011年9月4日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その96


110904

言志録 第96条




地をして能く天に承(う)けしむる者は、
天之を使(せ)しむるなり。
身をして能く心に順(したが)わしむる者は、
心之を使しむるなり。
一なり。


心の在り方に応じて身体がその機能を果たし動く。(第95条
心の命ずるままに、体がそれを実現していく。
これは稀なことではないのか。

誰もが、自身を思うままに、意のままに実現したいと思いながら、
そうできないことに苦しんでいる。

心を自身を通して現実化すること。
天が、地をして、天意の実現をはかること。
これは同じことを言っていると一斎先生は言う。

我が心が、天意をそのまま、我が身に伝えることができるか、
それとも、我意の実現にとらわれ、我が身もろとも苦中にあえぐか。

そもそも、
自身が天意を実現する為に、この地にあることに思い至れば(第10条)、
我が心をして、天意そのままに、
自身において発揮することが当然求められている。

「敬」(第94条)とは、そのための心身の在り方の工夫であり技術である。
地道を生きることができれば、我意にとらわれる必要はない。
おまかせの安心立命の境地がある。

2011年9月3日土曜日

わたしの(好きな)言志四録 その95



110903

言志録 第95条




耳・目・口・鼻・四肢・百骸、各其の職を守りて以て心に聴く。
是れ地の天に順(したが)うなり。


地道とは、天に随うの道。
天意を地上で実現する道。
それはちょうど身体の各部、各感覚器、すべてが、その機能を果たしていること。
しかも、各々勝手にではなく、心の在り方に応じて、働いていること。

裏を返せば、心次第で、身体・肉体の在り方が変わる。
心が、天意をどう受け止めるか、どう受け入れているかで、
地上での人の在り方が違ってくる。
どのような世の中を実現できるかが問われている。

2011年9月2日金曜日

わたしの(好きな)言志四録 その94



110902

言志録 第94条




人は須らく地道を守るべし。
地道は敬に在り。順にして天に承くるのみ。


素直に天命に従うこと。
天があり、その天に生かされていることに
感謝できること。

「地道」に対して「天道」がある。
地道を育むのが「養育」、天道を育むのが「教育」
両者相まって、「教養」という、と師匠に教わる。

今の世、知識人は多いが、教養人は少ない。

「敬」とは、他をうやまい、自らつつしむことという。

母なる道、地道は、「敬」によって育まれる在り方。
父なる道、天道は、「誠」を通して伝えられる。

天道を真に生きるための基礎が、地道にある。

己れを存在させている、大いなる天の配剤を敬い、
その天に活かされている、己れを慎み、大切に育むこと。
それが、使命に生きるための大前提。

わたしの(好きな)言志四録 その93






110901

言志録 第93条




布置宜しきを得て、而も安俳を仮らざる者は山川(さんせん)なり。


第92条で花は無理強いされて咲くのでなく、
時機を得て、遅すぎず早すぎず、
それはまた、やむを得ず、開くと、
自然の時の流れの摂理を説かれた。

同様に、自然の地形とは、
(火山活動や気象条件の歴史を刻みながら)
その配置やバランスを、そこから はずしようがないほど、
そこから ずらしようがないほど、絶妙に保たれていると云う。

大自然のことわり、歴史の流れ、動きには、
理不尽はない。
無尽蔵の真理を感受できるか、
そこから学ぶことができるか、
が問われている。

2011年9月1日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その92



110831

言志録 第92条




已むを得ざるに薄(せま)りて、而(しか)る後に諸(これ)を外に発する者は、
花なり。


第10条とともに(「我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり」)、
私の大好きな言葉である。
(両文とも、西郷南州手抄にとりあげられてないところも、
自分なりにその理由を考える材料を与えてくれているところで感慨を覚える。
勿論、言志四録は後半のものほど、よく練れている文が多いとも感ずるので、
同じ内容をより簡潔に語る文が、のちにあらわれるかもしれないが)

花は、無理矢理咲かせるものでない、というこの言葉が、
どれだけ人を励ますか。