提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年6月30日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その30

110630

言志録 第30条


自ら責むること厳なる者は、人に責むることも亦厳なり。
人を恕するころ寛なる者は、自ら恕することも亦寛なり。
皆一偏たるを免れず。
君子は則ち躬自ら厚うして、薄く人を責む。


人に対して厳しく責めないためには、
こだわらないこと。

自分に対して甘くならないためには、
天命に恥を覚えないことを恥と思うこと。

連れ合いには、
人には厳しいくせに
自分にはとことん甘いと
いつも詰(なじ)られている。
(なじら?は、生まれ故郷の言葉では、HOWAREYOU?のこと。)

まだまだ
こだわりがぬけず、
天命に気づいてないということ。

春風を以て人に接し
秋霜を以て自ら粛す。
と、言志後録第33条にもある。

目標にしたい
好きな言葉なのだが、
まだまだだ。

2011年6月29日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その29

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言志録 第29条


大徳は閑(のり)を踰(こ)えざれ。
小徳は出入すとも可なり。
此(これ)を以て人を待つ。儘(まま)好し。


大徳とは、忠・信・孝・悌 など。
小徳は、進退応対など とのこと。

正直、誠実など人としての守るべき価値は譲れない。
社会人としてのマナーについては、そうこだわらなくてもよい。
と今は解しておく。

大枠の価値観や方向性があっていれば、
細部にこだわらない。

第27条とは矛盾しない。

「こだわらない」ことだ。

2011年6月28日火曜日

わたしの(好きな)言志四録 その28

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言志録 第28条


纔(わずか)に誇伐(こばつ)の念頭有らば、便(すなわ)ち天地と相似ず。


天地自然のようにあることは難しい。
天命に気づくこと、そして
その天命に生きることも 簡単なことではない。
天の計らいに学ぶこと
誰もがやれているわけではない。

その上で、それを誇りに思っては、天然自然に反すると。

四十歳は不惑、そして知命は五十歳ということだが、
そこに至っても、誇ってはならずとは 厳しい。

誇ることの中に、一片の私=自我があるのだ。
それが 天然自然、あるべき姿を損なうことに思い至り、

あくまでも、天地自然のあるように。

2011年6月27日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その27

110627

言志録 第27条


真に大志有る者は、克(よ)く小物を勤め、
真に遠慮有る者は、細事を忽(ゆるがせ)にせず。


ゆっくり
大きく
遠くを
見る

これは 数年前になくなった
(と記憶していたがもう7年とは
野村万之丞氏の言葉と記憶している。

視野を狭めず、自ら素になる時には、
こういう作法が必要と思う。
そしておいて、

着眼大局 着手小局

神は細部に宿る ものと心得

一歩一歩 細心の注意で
後ろ足に重心を残しながら、
前へ進んでいきましょう。

2011年6月26日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その26

110626

言志録 第26条


事を慮(おもんばか)るは周詳ならんことを欲し、
事を処するは易簡ならんことを欲す。


生きることは、事に対処することの連続だ。
どんな人生を送ろうが、
時々の事々にどう対応するかが問われる。

どうすればよいか。
周到詳細、可能な限り遠く広く狭く詳しく思いを巡らし準備する。
実際の行動は、平易簡便、できるだけ単純に簡単な行為に納める。

シンプルに生きるために、日頃の準備を念入りにしたい。

2011年6月25日土曜日

わたしの(好きな)言志四録 その25

110625

言志録 第25条


名を求むるに心有るは、固(もと)より非なり。
名を避くるに心有るも、亦(また)非なり。


事をなすに、人に示そうという心は必要ない。
天につかえる心あることが必要と第3条にある通り、

自らの名声、名誉を「意識」しては、本物でないと言われているのは、
理解できるが、それができているとは思わない。

陰徳を積むことも、ことさら人に知られないようにする時点で、
変質してしまいそうだ。

ひたすら写経に向かっている時、
それはだれのためでもない、
強いて言えば、天に向かって事をなしていることになるのか。
その在り方そのものが、本当の自分の姿であり、
字に顕れる、現れないというものでなく、
一つ一つの文字を書き記すことそれ自体が、反省そのものでもあるのだろう。

天を相手にすることは、
アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズ二
自らの使命を淡々と遂行することか。
そこには自分の有る無しそのものが意味がないあり方が、
一瞬なりとも 生起するのだ。

2011年6月24日金曜日

わたしの(好きな)言志四録 その24

110624

言志録 第24条


心の邪正、氣の強弱は筆画之を掩(おお)うこと能わず。
喜怒哀懼、勤惰静躁に至りても、亦皆諸(これ)を字に形(あら)わす。
一日の内、自ら数字を書し、以て反観せば、亦省心の一助ならむ。


願をかけて百日百回、心経を書いたことがある。
筆ペンを使ったが、ともかく毎日、字の間違いないように、
(間違えたら最初から書き直しなので)真剣に書き続けたが、
こうも毎日、同じ字を書きながら、多様な字面に、唖然とした。
(おかげで、諳んずることができるようになったが、)
実はこれ、自らとの対話だったのか。
自分が、いま如何なる状態か、反省するよい機会だったのだ。

そうだとして、わからないのは、
書かれた文字にあらわれる、自らのあり方は、
真の己れなのか、仮の自我なのか?

本当の自分と、もう一人の自分との関係は、外に現れる時、
どういうあらわれ方をするのか、
これからも 追究して参りたい。

2011年6月23日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その23

110623

言志録 第23条




吾(われ)方(まさ)に事を処せんとす。
必ず先ず心下に於て自ら数鍼(しん)を下し、然る後、事に従う。


従事するとは、事に「従う」ことであった。これは発見だ。
事を処理するのではないのだ。
志事に従う、使命=天命に従う。

事に従う前にすべきこと、
それはまず自らの心を修めて、腹を据えること。

事を追いかけるのではなく、事に添って従うこと。

2011年6月22日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その22

110622

言志録 第22条




間思雑慮の紛紛擾擾たるは、外物之を溷(みだ)すに由るなり。
常に志気をして剣の如くにして、
一切の外誘を駆除し、敢て肚裏に襲い近づかざらしめば、
自(おのずか)ら浄潔快豁なるを覚えむ。


日常の仕事は、諸事雑事多く、大事なこと、なかなか進まず。。。
外物を排除し、外誘を駆除し、とはごもっともだが、
仕事とは、そちらの方が多いのではないか?

しかし、これは言い訳にすぎない、
その「大事」の大事さが身に沁みてないだけだ。
真剣を自らに向け、「浄潔快豁」の境地で、大事に専念すべしと。

仕事を「志事」と呼ぶらしい。
諸事雑事も、自らの志事として、真剣に取り組む。
それも「大事」であると認めれば。

そのためには、自らの器をまず見直す必要がありそうだ。
限られた資源、仲間の時間、自らの能力、自らの時間、
それらを「真剣に」見極め見直し、
自らの大事=志事=使命に専念できていると実感こそが、浄潔快豁か。

2011年6月21日火曜日

わたしの(好きな)言志四録 その21

110621

言志録 第21条




心下痞塞すれば、百慮皆錯(あやま)る。


ころころ変わるココロも動きがあるが、
ここでは、良心の方の心、良知=魂 のこと。
心を動かされる方の心は、どちらか?
後者の方の心こそ、軽やかに、融通無碍に、動きがある方がよい。

その良心が動きを失う時、
ころころ動くココロがいくら働きまわっても、正しい道を歩めるはずがない。

心下とは、こころの奥底とのことだが、
そこに押し込められることを 良心は嫌う。

冷静な言動を時宜にかなって実現するには、
胸は空にし、腹は充実させ、
背にすまわせた良心が、からだを縦横無尽に躍動するイメージが浮かぶ。

わたしの(好きな)言志四録 その20

110620

言志録 第20条


人の精神尽(ことごと)く面(おもて)に在れば、物を逐(お)いて妄動することを免れず。
須らく精神を収斂して、諸(これ)を背に棲ましむべし。
方(まさ)に能くその身を忘れて、身(み)真に吾が有(ゆう)ならん。


心や気持を顔面に集中させ、身体の表面に表し過ぎている時は、
外界の事象に反応し過ぎ、物の表面をなでるのみで、行動が的を射たものにならない。
自分の身体であって自分のものでない状態になってしまうとのこと。

背中に一本、軸をもつように、精神を集中させるべきで、
軸足に体重がかかった状態、その時には、
外界に反応し過ぎず、また、自らの身体にも意識が行き過ぎない状態で、
自他の状況に応じた行動ができるという。
自分のからだを意識しない時にこそ、融通無碍に自らのからだを使うことができる。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」に通ずる。

これは心でも同じことだろう。
我=自我=仮己を忘れて、吾=真己=魂に生きる。

ここでも心のありよう、行動の秘訣を、身体の姿勢から説いている。

2011年6月19日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その19

110619

言志録 第19条




面(おもて)は冷ならんことを欲し、
背は煖(だん)ならんことを欲し、
胸は虚ならんことを欲し、
腹は実ならんことを欲す。


天然自然のありようを自得することとは、
自らの身体にも大自然を感得し、
また心のありようと体の姿勢とが不可分なことに気づくこと。

対比の妙と普段の感覚と逆の違和感が、
大自然としての自らの身体と精神のあるべき姿を、
より印象的に実感させてくれる。

表情や頭の中は冷静に自他を惑わすことなく、
暖かさは背中に充満させて自他を安心させるべし。

こころは空にして善きことを容れることができるようにし、
腹は充実させて胆をすわらせるべし。

2011年6月18日土曜日

わたしの(好きな)言志四録 その18

110618

言志録 第18条




凡そ事の玅処(みょうしょ)に到るは、
天然の形勢を自得するに過ぎず。
此の外 更に別に玅無し。


天然自然=天の計らいに学ぶべきで、
それ以上でも以下でもないということか。
ここまで「生生」(第16条)、「造化」(第17条)、
そして「玄妙」とあげられたことは
すべて大自然の営為そのもの。
天に生を授けられている自らも
その大自然の一部であると気づくことが大切。

「格物致知」と言われるとき、
物は、対象でなく、自らも含んだ天=自然を体得することと思う。
自らの良心に気づき、それに沿って生きることも、
いうなれば、天の計らいによるあるべき在り様に気づくこと。

2011年6月17日金曜日

わたしの(好きな)言志四録 その17

110617

言志録 第17条




静に造化の跡を観るに、皆な其の事無き所に行わる。


自然の営為には、当然のことながら「不自然」なところは見受けられない。
あえて事を為そうとしなくても、自然の創造化育は、絶え間なく繰返されている。
そこに、自然の一部である自らのあり方や活動を見出すこと、
自らの在り様を反省し、天然自然の一部として自らを発揮することができれば。

太上は天を師とす(第2条)とは、このことを意味すると思うが、
物言わぬ大自然から「其の事無き所」に天然自然のことわりを学びとることは難しそうだ。

自然を、また、自らを「静観」することを会得出来ればと考える。

2011年6月16日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その16

110616

言志録 第16条




栽(う)うる者は之を培う。雨露(うろ)固より生生なり。
傾く者は之を覆えす。霜雪も亦生生なり。


天然自然のあるがままの姿を 「生生」と表現するのであろうか。
雨も露も、雪も霜も、その持って生まれた役割を全うするだけで、
ものを育みもし、また殺ぐこともする。
丁度、土が、ものを育て支えるとともに、朽ち腐らせもするように、
陽光でさえも、命をもたらすとともに、奪いもすることに直截的に現れている。

第1条で云う「凡そ天地間の事は、・・・其の数皆前に定まれり」と。

自らの 有るがままに気づき、有るがままに「生生」たることを 求めて参りたい。

2011年6月15日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その15

110615

言志録 第15条




辞(ことば)を修めて其の誠を立て、誠を立てて其の辞を修む。
其の理一なり。


学問することで人としての誠の道を立て修養すること。
人としての修養を積み己の誠の道を立てて、学問すること。
つまり、学問することと、心を正し真に生きることとは、
表裏一体、道理を同じくする。
また、どちらが欠けても成り立たないものであることを
肝に銘ずる必要がある。
修辞立誠(易経)とのことだが、
学問には立志が肝要であり、立志を欠いて学問はない。

まさしく
「言志」録とは、「知言」と「立志」の謂いであると、
近藤正則氏の説にあるとおり、

大自然=宇宙=世界のことわりを知ること、すなわち
自らの天命を知り、使命に生きることなのだ。

2011年6月14日火曜日

わたしの(好きな)言志四録 その14

110614

言志録 第14条


吾、既に善を資(と)るの心有れば、
父兄師友の言、唯だ聞くことの多からざるを恐る。
読書に至っても亦多からざるを得んや。
聖賢云う所の多聞多見とは、意正に此くの如し。


資善の心があってこそ、
より多く見聞きし、見聞きすればするほど、より謙虚に、
その中の善なるもののみを自らのものとすることができるという。

学問の手段である読書もまた、虚心により多く求めてこそ、
真の学問の為になる。

第3条のように、天に仕える心はなくてはならない。人に示そうという心はないほうがよい。

呂新吾の云う「その心を空(むな)しうして、天下の善を容れ」とは、このことか。

より多く見聞きすることで、どんどん人は謙虚になるのだ。


アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズ二
ヨクミキキシワカリ / ソシテワスレズ

2011年6月13日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その13

110613

言志録 第13条


学を為す。故に書を読む。


何故 書を読むのか?
学問の為である。

何故学問が必要なのか?



ここまで「学」について触れられているのは、

第1条の「凡そ天地間の事は、・・・其の数皆前に定まれり。・・・殊に未だ前知せざるのみ。」
第2条の「太上は天を師として、・・・人を師として、・・・経を師とす。」
第5条の「憤の一字は、是れ進学の機関なり。」
第6条の「学は立志より要なるは莫し。」
第12条の「三代以上の意思を以って、三代以上の文字を読め」


自分が何故この世に生を享け、どう生きてゆけば良いのか。
自らの良心、すなわち、天の意思に気づくことが大切。
そのために、
学んで自らに問う「学問」が必要なのだ。

2011年6月12日日曜日

私の(好きな)言志四録 その12

110612

言志録 第12条


三代以上の意思を以て、三代以上の文字を読め。


古代中国の理想時代、夏・殷・周を合わせて三代と呼ぶとのこと。
そんな理想時代の書物・聖典に学ぶ時にもつべき気概とは、
その理想時代以上の見識をもって、字面にとらわれずに、その行間を読み取り、
現在に生かすべき、大宇宙の真理を学ぼうとすることである。
三代の理想・真理を現実に生かすための工夫と考えられる。

歴史「を」学ぶのではなく、歴史「に」学べと
常々、私も師から教えられている。

また、ここで「三代」は、文字通り、三世代や三時代と考えて、
自らを先人や子孫の流れの中でとらえ、
今の時代を、前後の歴史の流れの中でとらえることで、
その流れの中で働いている、天の意思とでも言うべきものに想いに到らせることで、
学ぶべき書物についても、そのような歴史の流れの中で、
それを貫いているものを読み取ることが必要と言っているようにも考えられる。

歴史や人や書物に学びながら、そこに天の意思、自らの使命を読み取れと。

2011年6月11日土曜日

私の(好きな)言志四録 その11

110611

言志録 第11条


権は能く物を軽重すれども、而も自ら其の軽重を定むること能(あた)わず。
度は能く物を長短すれども、而も自ら其の長短を度(はか)ること能わず。
心は則ち能く物を是非して、而も又自ら其の是非を知る。
是れ至霊たる所以なる歟(か)。


ハカリも物差しも自分のことを計測できないが、
人の心は自分の善悪の判断をも為し得る。

我が師が伝えてくださるのは、人の心には、
中心に「しん」(心=芯)と呼ぶべき、魂=良心があり、
我々が通常感じる心というのは、
そのまわりにある、コロコロ変わる「ココロ」なのだと。
ココロの是非を判断するのは、芯となる良心であり、
それは、鏡に映る自分(=仮己)を見つめる、もう一人の自分(=真己)がいることに気づくことだと。

自らの使命が何か省察できるのは、この心のはたらき、心のあり方のおかげである。
自らの良心に気づき、その良心のはたらきに、自らをゆだねることができるかどうか、
万物の霊長たる人間としてこの世に生を与えられた自分が、
天の命ずる自らの使命を果たすことができるかどうかが問われている。

2011年6月10日金曜日

私の(好きな)言志四録 その10

110610

言志録 第10条


人は須らく自ら省察すべし。
「天、何の故にか我が身を生出(うみいだ)し、我れをして果して何の用にか供せしむる。
 我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり。
 天の役共せずんば天の咎(とが)必ず至らむ。」
省察して此(ここ)に到れば則ち我が身の苟(いやし)くも生く可からざるを知らむ。


人は何のために生まれてきたのか。
天が生み出した、「天の物」である自分の心体には、
「天の役」があるはずなのだ。
第3条のいうように「天に事うるの心」を発揮し、
その天職を全うするために この世に生を受けたのだ。
無慈悲にも、その役が終われば、また、全うできない時には、
天にもどされることとなるのだ。
天の意にかなうこと、すなわち、
「天を師」(第2条)とすること。
そして、その天の意思を、人や先人の書物の助けを受けながら、
省察~自らに問い、見出し、気づいていく過程こそが人生なのだと改めて思う。

2011年6月9日木曜日

私の(好きな)言志四録 その9

110609

言志録 第9条


君子とは有徳の称なり。
其の徳有れば、則ちその位有り。徳の高下を視て、位の崇卑を為す。
叔世に及んで其の徳無くして、其の位に居る者有れば、
則ち君子も亦遂に専ら在位に就いて之を称する者あり。
今の君子、盍(なん)ぞ虚名を冒すの恥たるを知らざる。


君子という地位にも、天職がある。
徳がなくては、その天職を全うできないのに、
恥を知らないことこそ、恥の最たるもの。
しかるべき地位にあるなら、自問すべきだろう。

2011年6月8日水曜日

私の(好きな)言志四録 その8

110608

言志録 第8条


性分の本然を尽くし、職分の当然を務む。
此くの如きのみ。


この世に生まれてきたからには、
人間本来の良心を発揮し、自分の天職を全うすることに専心するべし。
自分の魂を磨きあげ、人物を練りあげる。
それぞれの人が、それぞれの与えられた場で、
自らの良知に気づき、その一燈を引っ提げて、世を照らすことに、一生を賭ける。
安岡師の「一燈照隅行」とはこのことと考える。

「性分」「職分」についての所説は
よくわかってないので下記に譲る。

性分とは、五常(仁義礼智信)のことで、
人間が本質的に持っている真心とのこと。

職分とは、孝悌忠信など、他人に対して尽すべき奉仕、
為すべき義務とのこと。五倫五常のうちの、五倫に近いか?
「五倫」は基本的な人間関係を規律する五つの徳目で、
父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信 とのこと。


これまでことわりなしに引用してきている
本文読み下しは、
川上正光氏全訳注の講談社学術文庫より。
解釈も参考にさせていただきつつ、

一斎翁が齢四十二歳より記した言志四録に、
逐条逐一随っていくことで、
同年齢になった自分がこれまで学んで身につけてきた
一燈=志=良知=魂=使命=天職という
自らの読みを確認修正して参りたい。

2011年6月7日火曜日

私の(好きな)言志四録 その7

110607

言志録 第7条


立志の功は、恥を知るを以て要と為す。


自らの使命に生きようと決意する時、その使命に対して本当に自分が相応しいかどうか
悩み苦しむ、これは、「恥」の意識と思う。
自分の天命に相応しくない、現在の自らのあり方にたいする、憤り。
誰に対して恥ずかしいか、世間や他人に対してではない。
自分に対しての恥、それはすなわち、自分に生を与えた天に対する恥。
自らの良心に対する恥と言えるかもしれない。

志を立てることによって得られる功徳の中心は、恥を知ることである。
もしくは
志を立てるための工夫としては、恥を知ることが肝要と教えている。

2011年6月6日月曜日

私の(好きな)言志四録 その6

110606

言志録 第6条


学は立志より要なるは莫し。
而して立志も亦之れを強うるに非らず。
只だ本心の好む所に従うのみ。

「志」というのはどのようにして個人に生まれてくるのか、よくわからない。
「夢」のことか? 「目標」のことか?

今の私の考えでは、志とは、自らの使命に生きようとする決意と思う。
自分がこの世に生命を与えられて誕生し、生きている理由、
天が命じている 自らの役割。天命?
これが何ものか、それに気づくのも自らの人生の中での
大変重要な使命なのではないかと思う。
本当の自分、自らの良心。そこから引き出せる、自らの天命。

志すなわち、本心の好む所とは、自らの良心に従う時にしか見いだせない
自分の使命、そのことと考えられる。

使命に気づくためにも、学ぶことが必要だ。
学ばねば、自分の志もわからないまま、一生を過ごすことになるかもしれない。

自らに対して、自分がこの世に生を与えられている意味、
まっとうすべき使命をいまだ果たせてないことへの憤りが、
学びを進める力になると同様に、

自らの使命に気づくこと、立志のためにこそ
学ぶ意義がある。
本当の自分が求めるところに従った学びのみが大切なのだ。

2011年6月5日日曜日

私の(好きな)言志四録 その5

110605

言志録 第5条


憤の一字は、是れ進学の機関なり。
舜何人(なんびと)ぞや、予(われ)何人ぞやとは、方(まさ)に是れ憤なり。


「憤」ということが、
学問に進む、または学問を進めるために必要不可欠なものとして挙げられる。

孔子の弟子顔淵が「古代中国の名君である舜も自分も同じ人間ではないか、舜にできて自分にできないはずがない」と、自らを鼓舞し発奮激励する。
それこそが、学ぶことに人を駆り立て、またその学びを継続し深化させるためのエンジンとなる。

通常、外に向けた心の動きと感じられる、発憤(発奮)、憤(いきどお)るとは、
しかし、ここでは(本来は、というべきか)自らに向けられている。
「学問」は、学んで「自らに」問うこと、と教わっているのと同じく、

この「憤」も自らに対して、
自分がこの世に生を与えられている意味、
まっとうすべき使命をいまだ果たせてないことへの憤りが必要なのだ。

2011年6月4日土曜日

私の(好きな)言志四録 その4

110604

言志録 第4条


天道は漸を以て運(めぐ)り、人事は漸を以て変ず。
必至の勢いは、之を卻(しりぞ)けて遠ざからしむる能(あた)わず、
又、之を促して速かならしむる能わず。


天然自然の成り行きも、人の世の移り変わりも、
出し抜けに、急に生起するものではなく、
着実に、一歩ずつ、しかし 遅すぎもせず、早すぎもせず、
なるようになるものだ。
この認識は、
すべてのことが、避けようなく、起こるべくして起こることゆえ受け入れよと命ずる。
あらゆることを 時間が解決してくれる という安心感をもたせてくれる。
自らが、天道にのっとり、人道にそむかずに、ひたむきに生きてさえいれば。

2011年6月3日金曜日

私の(好きな)言志四録 その3


110603

言志録 第3条


凡そ事を作(な)すには、須らく天に事(つか)うるの心有るを要すべし。
人に示すの念有るを要せず。


自分の為にではない。他人の為でもない。
人がこの世に生を受けて為すべきは、天の意を汲み取り、天命に生きること。

毎日 身内だけでなく他人を相手にしながら、
人に注意を払わないと一歩たりとも前に進めぬような毎日を過ごしている今だからこそ、
あえて、その人の向こうに、天の意思を感じながら、
天の意に適う行動を追求することこそ大切と教えてくれる。

顧客を創造するとは、天=宇宙を顧客にできるような事業を創造するということかもしれない。
天の意思があるとしたらそれに適うようなサービスとは何か。

人を相手にしながら、その実、その人をも生かしている 大自然を相手にすること。

2011年6月2日木曜日

私の(好きな)言志四録 その2

110602

言志録 第2条


太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。


私が言志四録、また 佐藤一斎翁と引き合わせていただいたのは、師と仰ぐ人とのご縁である。
人は、ことばを発することのない大自然からこそ学ぶべきである。
でも、大自然=天のことばなき言葉を人を介して学ばせていただくこと、
人の書き記し遺した書物、
人から人へと伝えられてきた 聖典・経典や古典からも学ばせていただけることの
なんと有難いことか。

天災からも人災からも、そこから何を汲み取り、学ぶことができるか。
同時代のこの時期に居合わせていることの、
自らの使命、役割に思いを致す。

現在の職場で満三年。
人事も含めた大自然での事上磨錬が今、求められていること。

私の(好きな)言志四録 その1

110601

私の(好きな)言志四録 その1

言志録 第1条


凡そ天地間の事は、古往今来、陰陽昼夜、日月代わる代わる明らかに、四時錯(たがい)に行(めぐ)り、其の数皆な前に定まれり。
人の富貴貧賤、死生寿殀、利害栄辱、聚参離合に至るまで一定の数に非ざるは莫し。
殊に未だ之れを、前知せざるのみ。
譬えば猶お傀儡の戯の機関已に具れども、而も観る者知らざるがごときなり。
世人其の此の如きを悟らず、以て己の知力恃むに足ると為して終身役役として東に索め西に求め、遂に悴労して以て斃る。
斯れ亦惑えるの甚しきなり。(文化十年五月二十六日録す)

これを運命論ととるべきか、とるべきでないと考える。
人には、(人以外も)それぞれ使命があるのだと、
そこに生を受けている理由があるのだと、
それを見失ってじたばたするでないと、
自らの役割を早く見つけて全うせよと、
受けとめたい。

佐藤一斎先生42歳にこの達観。まさに不惑というところか。
この年にこの「其の数皆な前に定まれり」と喝破する、その境地に迫るべく、
これから 毎日一条ずつ 後を追って参りたい。


2011/05/31 9:00 撮影