提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年3月28日月曜日

直感を信頼できるくらい 素直で謙虚であれ

3月25日

あれから2週間経った。
職場での、日中の照明なしとエアコンなしは続いている。ウォームビズどころでない、防寒対策でのオフィス仕事にも違和感はない。
3・11以降、自分たちのあり方が変わらなければならないと、思い続けているが、何を変えていけばいいのか。
この節電も その一環となっていると思うが、キーワードの一つは、「知足」なのだろうと思っている。
足るを知る、分限をわきまえる、今あることが当り前でないこと、そのことへの感謝、
自分が生を受けた理由、使命の自覚と、それに忠実になること。

職場で継続している、コアバリューについて、みんカラというサイトのブログに書く。


ツイッター上で高橋源一郎さんや内田樹さんが紹介してくれた、
藤波心さんという自称B級アイドルの中学生のブログを知る。

「地震発生以来・・・もっとも知的な文章」とのことで、期待して読んだが、その通りと思う。
この「知的」というのは、10代前半の彼女の直感に正直なところなのだと思う。そして、この直感は正しいのだ。

地震発生の前まで、しかも例えば新潟長岡中越大地震の時の柏崎刈谷原発がどうだったかにも無関心なままで、原発について考えていたのは、
(そう、偶然にも、考えていたのだ)人類には、少なくとも、この日本では、原発は必要なのだと、ただし、火の扱いは、その火を、確実に管理できるよう、制御できるようにならなければならないし、人間にそれができるならば、原発は必要だし、今後もそれに頼っていくのだと。
CO2排出削減のためにも原発は有効、わが瑞浪の地下深くでは、廃棄物の安全な管理方法が研究されているとのこと。

今、大自然の動き、はたらきに対して、謙虚に向き合おうと考える時、人間にできることはあまりに無力ではないかと感じる。
地震や津波、放射性物質という自然に対して、それを管理したり制御できると考える人間の愚かしさを切実に感じるし、
人間には事故やミスなど必ずありうると考える時、これは人間を悲観しているわけではなく、
そういうときにフォローし合えるところこそが人間の最大の美徳とも感じるが、
そんな人間に責任もって扱える対象なのか、原子力というものは。
傲慢さは、やはり改めなければならないと切に感じる。

自分たちのありかたが変わらなければならないということは、
自然と人間との関係を見直すことになるのだ。


3月26日

会社では、朝礼に毎日、18あるコアバリューから今日のコアバリューを選んで、それについて話をし合っているのだが、
土曜は、少人数の出勤なので、より「コア」な話に展開していくのが常である。
今朝のコアバリューは、
「チャレンジすることでの失敗、迷惑を恐れず、あきらめない」

サッカーで途中までのパス回しは素晴らしいが、最後にシュートを狙えないでは、ダメなので、仲間を信頼して、チャレンジして行こうとか、
お客様の満足を得るのが最終目的なのだから、急な頼みごとの仕事も迷惑と思わずに、快く受け入れてほしい、
・・・などと話すのが常であるが、
今日の参考になった話は、社長のひとこと。
チャレンジさせてもらえるのは、当たり前なことではない。そのこと自体に感謝すべき。
さらに、あきらめない、がこのフレーズの肝であること、
チャレンジするのは、他の道を捨てて、この道を選んでいるから。
その決断こそが、チャレンジからあきらめず成功するまでの、エネルギーであると再認識させられた。


今日は、新潟から弟家族5人御一行様が車で遊びに来る日だった。午後3時ごろには、こちらに到着していたが、
こちらは土曜勤務で、しかも、夜は、月に一回、このところは第4土曜日におこなっている、坐禅会の日。

すでに長時間運転の後で一杯はじめていた弟家族は誘わずに、いつものようにお寺に向かった。

大湫町に一つあるお寺は、宗昌寺という臨済宗のお寺で、大湫小学校の前身「嶺西舎」あったところ。
7年前、大湫に中山道の宿場が開かれて400年の記念にと、まちづくりに携わる者たちの修養のためにお寺で坐禅会をやることになった。
やってみてはじめてわかったのは、警策(あの「喝っ」と肩や背中叩くやつ)もって、まわっていただく導師様のほうが、坐っているほうより大変なのではないかということ。
この岐阜県東南部、東濃地域では、多治見の虎渓山永保寺以外には一般で坐禅できるところはここしかない。
そうだからではないが、地元の人間よりも他町・他市の参加が多いかたちで、毎回10人ほどで、細々と続けたきた。
ところが、今日は、最近通い始めた息子と自分の2人だけだった。
春の送別会など、いろいろ忙しかっただろうか?
先月と同じ位、いやそれ以上冷えた本堂での坐禅だったが、
この、大湫に灯した一燈を、あきらめずに 続けていられることに感謝している。

2011年3月25日金曜日

一燈照隅 萬燈照国

3月20日

わが大湫町の南端、国道19号やJR釜戸駅から北上して、大湫宿にさしかかる手前の高い山、稲荷山の神社での初午の例祭があった。
織田勢の大湫砦となっていた、見晴らしのいいところですが、3年前の晩秋に、忽然とこのお稲荷さん、雄白稲荷神社は焼失してしまい、その翌年平成20年春には社祠が再建され、今春、社殿も作りなおされたのだった。
一体、神社が昼間、燃えて無くなってしまうとは、どういうことか、この暗示を、心に留めて、今も日々生きている大湫人がどのくらいいらっしゃるのかは、わからない。
暦では2月の事が多い、初午を、月遅れの3月に、しかもそれでも雪の影響など考慮されて、3月の第三日曜にある例祭だが、ここまで登る山坂の急なことから、神事のために神社まで登ってくるのは、子どもを含めて例年30人ほど。ムラの人口の1割に満たぬ数が多いか少ないかはわからぬが、淋しさがどうにも感じられてならないのだ。
雪の影響が考えられることもあって、今では、神事の後の 直会ナオライや餅投げは、境内ではなされず、集会所で行うので、山の上までお参りなしに、集会所に直行の人たちもいる。
(今年は、餅投げはなく、餅を皆に配ってました。)
まだ花見には早く、風の寒い季節のピクニックを、盛り上げる方法を考えて、
お稲荷さん(この地方では、炊き込みごはんを円錐形に握った「鳥の子」だが)や、熱い味噌汁でも食べれるといいのだが。

神渡良平先生のHP久しぶりに拝見し、埼玉県小川町の今野時雄氏のことを知る。
「具体的には、昭和 6年から 27年まで埼玉県嵐山町にあった安岡正篤先生の「日本農士学校」を範としてゆきたいと考えています。この学校は残念なことに戦後GHQの解体指令で没収されてしまいましたが、安岡教学は現代の日本に最も求められている教育だと信じます。」
日本農士学校の再建を目指されているところに、共感した。
地域を担う、というか、
自らの周囲を、足下の一隅をしっかり照らすことのできる、一燈照隅の人、
教養ある個人の確立のための、学べる場づくりをしたいと考えている私には、
大湫の地こそ、その場になりうるし、大湫自身がそれを最も必要にしていると、感じられてならない。
今後も、書き続けることで、このテーマを深めてゆきたい。



3月21日

2歳半の次男と、前の御宅に帰省している小学3年になるお孫さんを連れて、旧小学校のグランドへ。(前の御宅のご主人は病後のリハビリメニューを懸命にこなされていて頭が下がる。)
2人のちびっ子はジャングルジムで遊ぶ。次男は、雨上がりで滑るジャングルジムだったが、なかなか、上に登れない。先日、同年代の男の子と一緒のときは自慢げに上に登って行ったのだが。。。お姉さんが一緒のときは少し違うようだ。
ブランコでは、私の前に座らせて、一緒に ゆ~ら、ゆ~ら。狭い両端の金具が腰にあたって痛いのだが、
「タ・ノ・シ・イ・!!」を連呼する息子に、ハッとさせられる。
この十年間、長女や次女、また、長男に対しても、このような時間を過ごすことができてなかったことを反省する。
取り戻せない時間を悔やんでも戻らないが、すまないという気持は伝えつつ、
これからの一緒の時間の過ごし方を取り戻していきたい。

長男は昨年まで所属していた高校の音楽部の定期演奏会に出かけるとのことで、車で送ることに。道中、部のみんなに花束などは?と尋ねながら、代わりに親である自分が、花束届ける手もあるかと考える。
会場に息子をおろし、1人で花屋まで。ふと、花をわたすべき相手は、音楽部なのか?
たしかに体裁は整えることができるし、カッコはつく。しかし、その前に。
花を買うことなど母の日のカーネーション以外めったにしない自分としては、そうすべきか?
なけなしの予算から、花を買ったが、贈り先は、家族と会社のメンバーに。

公と私、どちらが大切かではなく、かっこをつけるでもなく、
まず自分に近いところから、ひとつずつ、一燈を灯していくことを、心がけていきたい。

そのうえで、先日 わが家で初めての快挙、宝くじが当たった(10枚中1枚当たるのより高いもの)のだが、
それは、自分たち家族の楽しみでなく、
この度の義捐金に使わせてもらうと子どもにも伝え、それを子どもたちも納得してくれたのは、有難かった。

2011年3月20日日曜日

感じたら動く 「明日のために 昨日を捨てる」

3月19日

昨日の義塾嶺西の講義記録続き
クロモジ開花はもう少し先
中山道大井宿甚平坂から御嶽山を望む
アセビは満開

・明日のために昨日を捨てよ(牛尾治朗ウシオ電機会長『致知』巻頭の言葉)
「過去の成功に安座することなく、昨日を捨てて明日に生きる覚悟を持って道を切りひらいていかなければなりません。」
・捨てるからこそ、新しいものが入ってくる。
・過去を捨てるとは、過去にこだわらないことである。
・過去にこだわらないということは、過去に真理を学ぶ、また、先人に真理を学ぶこと。
・自分を捨てること=信ずることが、先。
・信ずれば道が開く。それが運命であり、使命である。
・信じきること。信力=信仰。切れのよさとは、こだわらないこと。
・感じたら、まず動くこと。



昨日し残しの仕事あり(ヤリヌキ失格!)、本日、出社することに。
但し、午前中は家族との時間もあり(寝坊したのは確かだが、棲家の後ろの山にある白山様の月に一度の家族清掃で家族6人で石段百段登って最上部の清掃)、
午後から出社、しかも普段の平日にはなかなか挑戦できない 徒歩での通勤。
(こんな時だからこそ、あえて挑戦。これも週末に仕事を残したおかげ。春の日差しも、おっくうがる体を後押ししてくれた。)
といっても、20キロ弱あるので、徒歩区間は、JR釜戸駅までの約4キロの下り45分と、JR恵那駅からの約5キロ45分。
車でいつも30分たらずのところを約2時間かけて通ってみた。
帰りは、同僚に駅近くのスーパーまで送ってもらい~追いかけてきてくれたのだ。伊藤さん有難う!、
釜戸駅からの上りは、
知ってか知らずか「スーパームーン」(3月11日以前にはこうレポートされてもいた)のちょうど登る後ろから道を照らしてくれるおかげで、
午後8時の暗い山道を、懐中電灯なしで、歩き通すことができた。
登り50分の道のりで追い越して行った5台の車は薄情者ではもちろんなく、
ダイエットで歩いているなと、「あえて」車を止めることもせずに通り過ぎて行ったはず。
(帰って妻に話したら、夜道で人を車に乗せるなんてブッソウで出来るわけがないと一蹴された。そういう世間なのだ。)
燃費の悪い車に乗っているので、平日にこの経験を生かして、徒歩通勤を励行できればと考えたが、やはり片道2時間は時間がかかりすぎると断念。
ただし、いつでも歩けるという、心と体の準備ができたのは大収穫。




さて、歩きながら考えたこと。
大湫宿の本陣跡にある、旧大湫小学校の校舎について、今回の被災者の家族に使ってもらうことはできないか?
調理室も、シャワーもトイレも完備されている。
耐震補強がなされてない建物で、閉校後6年たったが、後利活用の決定案が出てない様子。
「青年塾」のような、学びの場に活用できないかと考えているが、
今、自分たちにできることを考えた時、
疎開ではないが、わが町に、人をお迎えするチャンスでもあり、
超深層研究すすんでいるわが瑞浪市としても、ここは、
市営住宅もそうだが、地科学研究の立派な研究宿舎ともども、旧大湫小校舎も
利用に供することができるのではないか?
お見えになった方々の御世話をさせてもらうのも、
今回の大震災の経験を他山の石として自らに活かすことにつながるのでは。

2011年3月19日土曜日

なんのために生まれて/なにをして生きるのか こたえられないなんて/そんなのは いやだ!


3月16日

小学校PTA 新年度学年委員選出会議

各クラスのPTAのお世話役を男親と女親1人ずつ選びます。(各学年1クラスずつなのでイコール学年委員)
事前に、昨年や今年に役がある人を除いた中から投票をしておいてもらい、(それを教頭先生が名簿に集計してくださった中から)その結果に基づいて選出します。男親は、即研修委員(PTA広報誌の編集)、女親は即母親委員で母親学級などの運営も担います。
自分たち本部役員もそうなのだが、自らの集団のリーダー選びが、役の押し付け合いになっている現実 そのものが、自分たちの属している集団なり、組織なり、社会なりに対する、想いの薄さを表しているようで、それが悲しい現実ではある。が、選ばれた人間の自覚と意思次第で、その現実を変えることができるとも思う。
精一杯やるべし。

3月17日

NHK第一ラジオを車の中で聞いていた。大震災関連・原発関連のお知らせにまじって、
リクエストのお便りもあり、そこで、前の日に流れた、アンパンマンの歌に 涙が流れたとのことで、再度リクエストにこたえてのオンエア。

「アンパンマンのマーチ」

作詞:やなせたかし/作曲:三木たかし/編曲:大谷和夫/
歌:ドリーミング

そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ胸の傷がいたんでも

なんのために生まれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
行け!みんなの夢 まもるため

なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
行け!みんなの夢 まもるため

時は はやく すぎる
光る星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな 敵が あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
行け!みんなの夢 まもるため

避難所の子どもたちを和ませるための 歌が、大人をこそ慰め、清らかな涙を流させる、
今これから生きようとする皆のこころに沁み入るような言葉たち。

いままで何気なしに聞いていたが、(今でも2歳の二男のおかげでよく聞く歌ではある)PTAでも、やはり親のほうにこそ聞かせたい。

やなせたかしさんの戦争体験・弟さんの事がベースになっているとのことですが、

今こそ、親も子も「何のために生まれて、何をして生きるのか」深く問い直し、一歩前に足を踏み出したい。

今日は、朝は、中学1年の長女の教育相談で中学校へ。
夕方は、ラジオ聴きながら車走らせ、長男の高校復学願提出の日だった。


3月18日

毎月第3金曜開催の 義塾嶺西 の徳増省允先生講義記録
(嶺西とは、現在は廃校となった旧大湫小学校の前身「嶺西舎」より由来するが、この嶺は恵那山という解釈で、恵那山以西の地、恵那で現在は開催)

・今年平成23年は辛卯の年、後半には荒れると考えていたが、旧暦で二月の節が変わったばかりの3月11日に、大震災、津波、原発危機 と3重で見舞われてしまった。
・まだまだ地に足がついてないところ、つまり、便利過ぎた世の中に慢心していたところを、反省させられる。
・世界からの支援とともに称賛の声が多くあがっている現在の日本。
・モノの買い占めなどは、昭和27年第一次オイルショック時にもあるように日本人の旧弊がそのまま健在ではあるが、
・被災地での人々の姿には、また、節電や停電への対処など海外メディアに取り上げられたように、称賛されるべきものがある。
・日本人は、そのことに誇りをもっと持ってよい。
・クローデルが「高貴な民族」といい、また、大正11(1922)年来日時のアインシュタインが残した言葉、の意義を理解すべきである。
・フランスの詩人ポール・クローデルの言葉「日本人は貧しい、しかし高貴だ。世界中でただ一つどうしても残してほしい民族があるとしたら、それは日本人だ」
・アインシュタインの言葉「世界の未来は進むだけ進み、その間に幾度か争いが繰り返されて最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類は真の平和を求めて世界の盟主を挙げねばならない。この世界の盟主なるものは武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古くもっとも尊い家柄でなければならない。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する、われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。」
・東西の世界の流れは、2000年からは東に向いている、現在10年たった。
・西にアフリカ・ユーラシアがあり、そこから、中国ー朝鮮半島ー日本 極東でもあり、「日出る国」でもあるが、この東アジア世界は、漢字文化圏でもあり、一体のものとして考えることができる。
・「大東亜」共栄圏には、支那事変前後の頃からの日本の自惚れがあらわれており、昭和5年から10年、16年、そして20年というこのころの歴史をこそ再度学びなおしていただきたい。
・日本は経済的に中国に越されてかまわない。盟主としての日本のあり方をこそ追求すべき、そのためにも 日本の誇るべきありようを自覚しよう。
・今回の大震災を通して、今までの日本では立ち行かないことの現れ、地方から日本は変わっていくはず。名古屋の議会解散、減税新党の勝利、しかし過半数を与えない市民の判断のバランス感覚。
・リニアの経路で考えても、東京から、東濃(土岐氏)・西濃(岐阜・信長)を経て、名古屋(尾張・秀吉、三河・家康)そして、京都・大阪。江戸湾もそうだが、同様の三河湾のある名古屋が今後発展する可能性大なり。
・「偉大なる田舎」より変わる日本。
・勝負に勝つのではなく、約束を必ずや達成するため継続する。
・信ずるからこそ、結果が出てくる。そこには信頼があり、恕の心がある。
・無理は、後になって必ず戻ってくる。中庸こそが肝要。
・日本は、地域は、自分は、使命に生きているか?立ち止まること必要。そして、自らの心を養うこと。
・アインシュタイン来日時に案内したのが、恵那岩村出身の三好学で、瑞浪市土岐小学校の校長の経歴も。
・今年恵那でフォーラム開催予定、瑞浪も縁あり。現中京短大敷地に土岐小学校の前身あり、そこに三好学ゆかりの桜の木あるとのこと。

2011年3月16日水曜日

傍観者だったかもしれない。しかし、生き延びてきたのだ。サバイバー=屍を乗り越えて生き抜く者たちの覚悟

2011年3月11日
14時26分ごろ(自分の覚えでは午後1時半頃と思ってた) 恵那市のオフィスの床もデスクも椅子もが左右にスライドし始めた。何分か続いた気がした。
(その時には、とうとう東(南)海大地震か、と思ったほどだった。)
スカイプでつながっている東京オフィスからの声は、ビルの中にいるのが危険に感じられ、駅前の屋外に避難すると告げていた。

その晩は、11時ごろ帰宅。言葉を失ってしまってます。何をか語らんや。

今日の昼までは、ほんとに今までの延長線上にあると思っていた次の日や来年や未来が、
今日の昼からは、異質な、見覚えのない、しかし、来るべくしてきた明日となっていた。

昨日と同様では、明日は迎えられないのだ、
そんな、覚悟というか、現実の受け入れを迫る、自らの?声によって、
沈黙しているしか術がなかった。

このままでは立ち行かない、そういう事態に直面する時に、いや、その現実をつきつけ、人に受け入れさせるために、しっかり準備を整えたうえで、悲劇は突然やってくる。


3月12日
午後1時から、地元恵那市ではじめて(と当日聞かされました)の合同企業説明会があり、新卒採用予定はないが、今後の準備のために参加させていただいた。

大企業に製品を納める企業とは少し趣が違う、私たちの製造業は、仕事を求めるこの春卒業する人や、来年就職を目指す学生さんたちの印象には、どのように映ったのか? 
心意気は、草創期の松下電器の社長の言葉のように、「製品ではなく(製品の前に)、人(の幸せ)を作る企業」との自負のみで、
思わず熱く語りかけていた。
あの時、右往左往、うろうろしていた、学生であった私自身に対して叱咤激励していた。

そして、今回の大震災の影響は、自分たちの企業活動にも、
昨日と同じ明日を許してくれそうにない、
世界が異質になった転換点に、今、居合わせていると、思い知らされることになるのだ。

20代初めの女子の意欲的な、しかも、素直な瞳の輝きには、希望を見出せるし、癒されもする。


3月13日
日曜日は、家族とともに棲んでいる地域、大湫町の全戸一斉参加の春の奉仕作業。朝8時から11時までの作業。

自分の住んでる家や個人の身の回りでさえ妥協して整備しているのに、皆が共通して使っている道路の整備と清掃を徹底的にやりきろうという意欲は見られない。
溝さらえも、道路に張り出した枝も、枯れ松も、徹底的には完遂できない。リーダーの不在。想いの共有のなさ。
道の両側に広がる、手入れのされていない植林地。過去に先人たちがよかれと、無計画に植えた苗が、子孫の管理能力を嘲笑うように、ひょろひょろと天にむかって伸び、道は日中でも、日の光が当たらない暗闇のままなのだ。

昼は、自治組織の年度末の寄り合いがあり、自律できない地域の現実に、七十後半の檄が飛んだ。。。戸数150戸ほどの、地域唯一の檀家寺を支えるのにも汲々としているわが町だが、そんな小さな町への公の資金投入をまだまだ声高に叫ぶところには、昔から変わらない旧民社系の老政治家の片鱗が健在だったが、
何もない、何もできない、何もする気がない、のないないづくしの、団塊世代に、彼の熱き想いが、少しでも伝わればと思わずにいられない。
(私自身も、この老政治家をたよって、この地に住まわって10年になるのだが、いまだに非力なままである。必ず恩返しさせていただきます、この土地に対して。改めて決意。)

しかし、映像で見る大津波で、人の生活の痕が、命もろとも、奪い去られるのを目の当たりにすると、
ここでの現実と妥協しながら生き永らえることの無意味さを改めて訓え、
このままでは早晩立ち行かなくなるぞ、との声が、抜本塞源の道をこそ、めざすべしと響くのを、止めることはできない。

感謝がないのかもしれない。有難いと思わないで、一日たりとも生きていけるものか。
ローマのゲニウス・ロキのごとく、土地の神、この地の魂があるならば、さぞ嘆き、また怒っているだろう。
土地柄やこの地の持つ雰囲気が、訪れる人に、どう見え、感じられるのか。
この地のゲニウス・ロキのためにこそ、私は生きなければと思う。(中途で投げ出している「大湫風通信」もどうにかします)


3月14日・15日
日本の半分が苦しんで呻いている、現実の日本の中での生活が、これからの日常なのだと、配達不能地域や避難指示地域の言葉が知らしめていた。

中日新聞の夕刊では、吉岡忍氏がこう語った。
「・・・十年前の「9・11」がその後の世界のあり方を変えたように、
この度の「3・11」東日本大震災も日本と日本人のあり方、その見方を大きく変えるにちがいない。
いや、変えないことには、もうこの国はやっていけない。
私たちはみな、生き延びようとする当事者である。」

たしかにそうだ。
「9・11」の半年前に大湫に移り住んだ私たち。
この10年を、まがりなりにも生き抜いてきている私たちだが、
もう立ち行かない、この現実に、
私たち自身が変わることで、現実を変えていくことができると信じて進むのみ。

2011年3月11日金曜日

謹啓 上甲晃青年塾塾長先生

謹啓 上甲先生
ご無沙汰致して申訳ございません。
生涯の師友を求めての青年塾体験入塾で気付かせていただいたのは、
師友をまず近傍にこそ求め、
一隅を照らすべきことでした。敬具 
平成廿三年三月八日 001


謹啓 上甲先生、
謦咳に接すると共に一緒の湯船に浸からせていただけた
僥倖に感謝し、ご縁を真に活かすために、
まず自らの積み重ねで一隅を照らしたく存じます。敬具
平成廿三年三月九日 002


謹啓 上甲先生、
あの時の先生のメルマガの言葉、「日本を救おうとするのではなく、
日本の救いたらんと努力すること」が、
脆弱な私の背骨を貫く軸の支えをなしています。 敬具
平成廿三年三月十日 003 


謹啓 上甲先生、
日本の救いたらんとする時、自らに恃む支えになる言葉です。
呂新吾の『呻吟語』です。
「その心を大にして、天下の物を受け、
その心を虚しうして、天下の善を容れ、
その心を平らかにして、天下の事を論じ、
その心をひそめて、天下のことわりを観じ、
その心を定めて、天下の変に応ず」とあります。 敬具
平成廿三年三月十一日 004

2011年3月10日木曜日

志ネットワーク 青年塾

43歳を迎える今年の年頭 誓ったことに、「環境整備、減量、青年塾」がある。

最初の二つは 去年も その前も、かなり前からの課題だが、最後の「青年塾」は、
すでに、入塾の締め切りが過ぎてしまっており、都合 私の今年の年頭所感は、三月ともたずに、破綻してしまったことになるかもしれない。

青年塾は、永年松下政経塾に関わられていた上甲晃氏が始められて、今年15期目に入るもので、国内を5ブロックにわけて20代から40代の男女が20名前後集って15ヶ月間研修を共にするものだ。
昨年より縁あって、メルマガツイッターを介して毎日、上甲先生のことばに触れる機会を得ている。その中で、ある日のメルマガに、しびれたのだ。そこには、

「日本を救おう」と思うと権力が欲しくなったり傲慢になる
そうではなく、自分自身がただ
「日本の救い」になるような自分になるべきではないか
あせらず
人を恨まず
ただ、淡々と自分にできることを積み重ねていくことが、やがて大きな流れになる

とあった。そうだ、自らに恃むとは、こういうことなのではないか。胸が熱くなり、その日一日、職場のパソコン画面に向かいながら、内側から力のあふれる思いを感じさせていただいた。
「そうだ、青年塾に入ろう!」と今年の年頭に思い立ったのだ。後厄がこの節分で明ける、まだまだ自重は肝要だが、地力をつけたいとの思いと、何か、同じ想いの仲間を作りたい、そういう念願が、「青年塾に入る」ことに私を駆り立てたのだ。
上甲先生は、志ネットワークという全国組織を定年後に立ちあげられ、そこでの ひとそだての場が「青年塾」なのだ。

募集要項を取り寄せると、2月に説明会が名古屋であり、その前に、現役14期の塾生の地区別講座があり、外部の参加も可能だという。しかも、会場は、恵那であり、加子母だというわけで、そこにまず、参加させていただくことにした。
途中参加だったが、ドカ雪の降った2月の連休に、加子母の宿泊施設を訪ねて、参加させていただいた、クラス講座、そして、その後にあった入塾説明会は、実に充実しており、感動的で、
ほとんど気分は 15期生の渡邊です、と自己紹介しそうな勢いを、私にもたせてくれた。

ここには、こころざし、おもいを同じくする、師と友がある、それを自分が享受できる幸せは、これからの自分の生涯に確実にプラスの恩恵を齎してくれると確信できた。
江戸末期 大分の日田に桂林荘(後の咸宜園)という私塾を開いていた廣瀬淡窓が、「諸生に示す」で謳った世界がそこにあるという思いは、そこで過ごす日々の楽しさを感じさせてくれるに十分だった。

上甲塾長先生とのご縁を活かすべく、青年塾とのご縁を活かすべく、
自らの近傍に、例えば、すみかの大湫の地、釜戸にある子どもの学校、恵那にある会社、
もちろん他にも縁を結んでいる土地があり、それらの自分がかかわる地や人にもっと積極的に、自分から働きかけること、
身の回りに 師友を求め、一隅を照らすことができるようになることが必要ではないかと思い至るようになってきたのが最近の心境だ。

2011年3月8日火曜日

小学校のPTA

昨年末、小学校のPTAの寄り合いで来年度の副会長(その次の年は会長)ということになってしまった。次女は、この4月から5年生だが、ようやく毎日学校に通うのに慣れた様子。長女は中学にはまだ半年分も通ってない、週に1日か2日くらいか。休学中の長男は、この4月から再び高校2年生をはじめようとしている。これほど学校に適応できてない立場から、PTAの役員をやる意味を見出してみたいと思い、不承不承ではあったが、引き受けることにした。

昨日は 新旧常任委員会ということで、午後7時からの会議だった。間に合うには、勤務している会社を6時半には出発しなければならない。今日はめずらしく15分には切り上げることができ、(仕事が片付いたというわけではない)会議室には一番乗りになってしまった。いつもの調子なら30分過ぎにでも、そっと会議中に席に着くことになるところだが(事実、これからダブルでくる支部長の会議が先月末にあったが、1時間遅れでしか行けなかった)、しかし、早く着くのは、精神衛生上 大変よろしい。教頭先生(だいたいPTAの世話役は教頭さんと相場は決まっている)から最初に番茶をいただいた。いい先例にしたい。

会議では通例、配布資料と首っ引きで、説明が終わるまで、じっと待ち続けて、口を開くのは、会議の前後や、会議と関係なしの世間話だけだが、この苦痛の時間が少しでも、「生きてて良かった」と一瞬でも味わえる時間に、することができればと思う。

そんなこと考えながら、4月の総会の資料を眺めていると、今年度の活動目標案には、
「いま一度、命の大切さを考えよう!!」とあった。通例では、こどもを温かく見守ろう、とか、親と子のきずなを云々、がPTAの役割かと思いこんでいたので、「命の大切さ」という言葉は新鮮だった。
しかも、そのために、「感謝の心」「思いやりの心」「行動する勇気」を育てていくとあり、毎日5分以上親子の対話をお願いされてしまった。

新旧で20人ほどの役員の人たちはどう思ったのだろうか?やはり、説明が終わるのをじっと待っているだけなのだろうか? ただ漠然とスローガンとして通り過ぎてしまうのでは、この提案が与えてくれた新鮮味がもったいないと思え、思わず、共感しますと、賛成の発言をしていた。

いらぬことには、この前のカンブリア宮殿で 羽島の未来工業の社長さんが掲げていて、村上龍がいたく感動していた「常に考える。」の言い切りに触発されていたので、「考えよう!」ではスローガンになってしまうので、「いま一度、命の大切さを考える」としては、と意見してしまった。目標としてはこの方がいいし、自分事として、身に引き付けることができるはず。

ところが、校長さんの機転?かどうか、活動「目標」を、活動「スローガン」にすることで、「考えよう!」は、文字通り、スローガンにされてしまいましたとさ。

PTAの活動目標をこれから会長になる、副会長さんがひとりで考えたかどうかはわからない。しかし、それを活動目標に組み込み、しかも、それが違和感なく、通るような、いまどきの、素直な感覚、今の10代20代(30代も?)のスポーツだけでなく、あらゆる分野で、「魂」が謳われ、皆、素直に感動を求めている、いまどきの感覚は、PTAにも、浸透しているのかと感じさせられた。

(そういう私は40代はじめだし、会長さんもそうだが、)だからかもしれないが、それと同時に、この場に集まった「役員」や「学校」の感覚の動きのなさというか、心が型にはめ込まれていく感覚の健在なのを思いしらされもした。なんとかは頭から腐る?

腐らないようにするにはどうするか?
「PTA」に適応していくか、それとも不適応を楽しんでいこうかと、考えながら、家路への上り坂、車を走らせた。