提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年6月30日木曜日

わたしの(好きな)言志四録 その30

110630

言志録 第30条


自ら責むること厳なる者は、人に責むることも亦厳なり。
人を恕するころ寛なる者は、自ら恕することも亦寛なり。
皆一偏たるを免れず。
君子は則ち躬自ら厚うして、薄く人を責む。


人に対して厳しく責めないためには、
こだわらないこと。

自分に対して甘くならないためには、
天命に恥を覚えないことを恥と思うこと。

連れ合いには、
人には厳しいくせに
自分にはとことん甘いと
いつも詰(なじ)られている。
(なじら?は、生まれ故郷の言葉では、HOWAREYOU?のこと。)

まだまだ
こだわりがぬけず、
天命に気づいてないということ。

春風を以て人に接し
秋霜を以て自ら粛す。
と、言志後録第33条にもある。

目標にしたい
好きな言葉なのだが、
まだまだだ。

2011年6月29日水曜日

わたしの(好きな)言志四録 その29

110629

言志録 第29条


大徳は閑(のり)を踰(こ)えざれ。
小徳は出入すとも可なり。
此(これ)を以て人を待つ。儘(まま)好し。


大徳とは、忠・信・孝・悌 など。
小徳は、進退応対など とのこと。

正直、誠実など人としての守るべき価値は譲れない。
社会人としてのマナーについては、そうこだわらなくてもよい。
と今は解しておく。

大枠の価値観や方向性があっていれば、
細部にこだわらない。

第27条とは矛盾しない。

「こだわらない」ことだ。

2011年6月28日火曜日

わたしの(好きな)言志四録 その28

110628

言志録 第28条


纔(わずか)に誇伐(こばつ)の念頭有らば、便(すなわ)ち天地と相似ず。


天地自然のようにあることは難しい。
天命に気づくこと、そして
その天命に生きることも 簡単なことではない。
天の計らいに学ぶこと
誰もがやれているわけではない。

その上で、それを誇りに思っては、天然自然に反すると。

四十歳は不惑、そして知命は五十歳ということだが、
そこに至っても、誇ってはならずとは 厳しい。

誇ることの中に、一片の私=自我があるのだ。
それが 天然自然、あるべき姿を損なうことに思い至り、

あくまでも、天地自然のあるように。

2011年6月27日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その27

110627

言志録 第27条


真に大志有る者は、克(よ)く小物を勤め、
真に遠慮有る者は、細事を忽(ゆるがせ)にせず。


ゆっくり
大きく
遠くを
見る

これは 数年前になくなった
(と記憶していたがもう7年とは
野村万之丞氏の言葉と記憶している。

視野を狭めず、自ら素になる時には、
こういう作法が必要と思う。
そしておいて、

着眼大局 着手小局

神は細部に宿る ものと心得

一歩一歩 細心の注意で
後ろ足に重心を残しながら、
前へ進んでいきましょう。

2011年6月26日日曜日

わたしの(好きな)言志四録 その26

110626

言志録 第26条


事を慮(おもんばか)るは周詳ならんことを欲し、
事を処するは易簡ならんことを欲す。


生きることは、事に対処することの連続だ。
どんな人生を送ろうが、
時々の事々にどう対応するかが問われる。

どうすればよいか。
周到詳細、可能な限り遠く広く狭く詳しく思いを巡らし準備する。
実際の行動は、平易簡便、できるだけ単純に簡単な行為に納める。

シンプルに生きるために、日頃の準備を念入りにしたい。

2011年6月25日土曜日

わたしの(好きな)言志四録 その25

110625

言志録 第25条


名を求むるに心有るは、固(もと)より非なり。
名を避くるに心有るも、亦(また)非なり。


事をなすに、人に示そうという心は必要ない。
天につかえる心あることが必要と第3条にある通り、

自らの名声、名誉を「意識」しては、本物でないと言われているのは、
理解できるが、それができているとは思わない。

陰徳を積むことも、ことさら人に知られないようにする時点で、
変質してしまいそうだ。

ひたすら写経に向かっている時、
それはだれのためでもない、
強いて言えば、天に向かって事をなしていることになるのか。
その在り方そのものが、本当の自分の姿であり、
字に顕れる、現れないというものでなく、
一つ一つの文字を書き記すことそれ自体が、反省そのものでもあるのだろう。

天を相手にすることは、
アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズ二
自らの使命を淡々と遂行することか。
そこには自分の有る無しそのものが意味がないあり方が、
一瞬なりとも 生起するのだ。

2011年6月24日金曜日

わたしの(好きな)言志四録 その24

110624

言志録 第24条


心の邪正、氣の強弱は筆画之を掩(おお)うこと能わず。
喜怒哀懼、勤惰静躁に至りても、亦皆諸(これ)を字に形(あら)わす。
一日の内、自ら数字を書し、以て反観せば、亦省心の一助ならむ。


願をかけて百日百回、心経を書いたことがある。
筆ペンを使ったが、ともかく毎日、字の間違いないように、
(間違えたら最初から書き直しなので)真剣に書き続けたが、
こうも毎日、同じ字を書きながら、多様な字面に、唖然とした。
(おかげで、諳んずることができるようになったが、)
実はこれ、自らとの対話だったのか。
自分が、いま如何なる状態か、反省するよい機会だったのだ。

そうだとして、わからないのは、
書かれた文字にあらわれる、自らのあり方は、
真の己れなのか、仮の自我なのか?

本当の自分と、もう一人の自分との関係は、外に現れる時、
どういうあらわれ方をするのか、
これからも 追究して参りたい。