提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年6月14日火曜日

わたしの(好きな)言志四録 その14

110614

言志録 第14条


吾、既に善を資(と)るの心有れば、
父兄師友の言、唯だ聞くことの多からざるを恐る。
読書に至っても亦多からざるを得んや。
聖賢云う所の多聞多見とは、意正に此くの如し。


資善の心があってこそ、
より多く見聞きし、見聞きすればするほど、より謙虚に、
その中の善なるもののみを自らのものとすることができるという。

学問の手段である読書もまた、虚心により多く求めてこそ、
真の学問の為になる。

第3条のように、天に仕える心はなくてはならない。人に示そうという心はないほうがよい。

呂新吾の云う「その心を空(むな)しうして、天下の善を容れ」とは、このことか。

より多く見聞きすることで、どんどん人は謙虚になるのだ。


アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズ二
ヨクミキキシワカリ / ソシテワスレズ

2011年6月13日月曜日

わたしの(好きな)言志四録 その13

110613

言志録 第13条


学を為す。故に書を読む。


何故 書を読むのか?
学問の為である。

何故学問が必要なのか?



ここまで「学」について触れられているのは、

第1条の「凡そ天地間の事は、・・・其の数皆前に定まれり。・・・殊に未だ前知せざるのみ。」
第2条の「太上は天を師として、・・・人を師として、・・・経を師とす。」
第5条の「憤の一字は、是れ進学の機関なり。」
第6条の「学は立志より要なるは莫し。」
第12条の「三代以上の意思を以って、三代以上の文字を読め」


自分が何故この世に生を享け、どう生きてゆけば良いのか。
自らの良心、すなわち、天の意思に気づくことが大切。
そのために、
学んで自らに問う「学問」が必要なのだ。

2011年6月12日日曜日

私の(好きな)言志四録 その12

110612

言志録 第12条


三代以上の意思を以て、三代以上の文字を読め。


古代中国の理想時代、夏・殷・周を合わせて三代と呼ぶとのこと。
そんな理想時代の書物・聖典に学ぶ時にもつべき気概とは、
その理想時代以上の見識をもって、字面にとらわれずに、その行間を読み取り、
現在に生かすべき、大宇宙の真理を学ぼうとすることである。
三代の理想・真理を現実に生かすための工夫と考えられる。

歴史「を」学ぶのではなく、歴史「に」学べと
常々、私も師から教えられている。

また、ここで「三代」は、文字通り、三世代や三時代と考えて、
自らを先人や子孫の流れの中でとらえ、
今の時代を、前後の歴史の流れの中でとらえることで、
その流れの中で働いている、天の意思とでも言うべきものに想いに到らせることで、
学ぶべき書物についても、そのような歴史の流れの中で、
それを貫いているものを読み取ることが必要と言っているようにも考えられる。

歴史や人や書物に学びながら、そこに天の意思、自らの使命を読み取れと。

2011年6月11日土曜日

私の(好きな)言志四録 その11

110611

言志録 第11条


権は能く物を軽重すれども、而も自ら其の軽重を定むること能(あた)わず。
度は能く物を長短すれども、而も自ら其の長短を度(はか)ること能わず。
心は則ち能く物を是非して、而も又自ら其の是非を知る。
是れ至霊たる所以なる歟(か)。


ハカリも物差しも自分のことを計測できないが、
人の心は自分の善悪の判断をも為し得る。

我が師が伝えてくださるのは、人の心には、
中心に「しん」(心=芯)と呼ぶべき、魂=良心があり、
我々が通常感じる心というのは、
そのまわりにある、コロコロ変わる「ココロ」なのだと。
ココロの是非を判断するのは、芯となる良心であり、
それは、鏡に映る自分(=仮己)を見つめる、もう一人の自分(=真己)がいることに気づくことだと。

自らの使命が何か省察できるのは、この心のはたらき、心のあり方のおかげである。
自らの良心に気づき、その良心のはたらきに、自らをゆだねることができるかどうか、
万物の霊長たる人間としてこの世に生を与えられた自分が、
天の命ずる自らの使命を果たすことができるかどうかが問われている。

2011年6月10日金曜日

私の(好きな)言志四録 その10

110610

言志録 第10条


人は須らく自ら省察すべし。
「天、何の故にか我が身を生出(うみいだ)し、我れをして果して何の用にか供せしむる。
 我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり。
 天の役共せずんば天の咎(とが)必ず至らむ。」
省察して此(ここ)に到れば則ち我が身の苟(いやし)くも生く可からざるを知らむ。


人は何のために生まれてきたのか。
天が生み出した、「天の物」である自分の心体には、
「天の役」があるはずなのだ。
第3条のいうように「天に事うるの心」を発揮し、
その天職を全うするために この世に生を受けたのだ。
無慈悲にも、その役が終われば、また、全うできない時には、
天にもどされることとなるのだ。
天の意にかなうこと、すなわち、
「天を師」(第2条)とすること。
そして、その天の意思を、人や先人の書物の助けを受けながら、
省察~自らに問い、見出し、気づいていく過程こそが人生なのだと改めて思う。

2011年6月9日木曜日

私の(好きな)言志四録 その9

110609

言志録 第9条


君子とは有徳の称なり。
其の徳有れば、則ちその位有り。徳の高下を視て、位の崇卑を為す。
叔世に及んで其の徳無くして、其の位に居る者有れば、
則ち君子も亦遂に専ら在位に就いて之を称する者あり。
今の君子、盍(なん)ぞ虚名を冒すの恥たるを知らざる。


君子という地位にも、天職がある。
徳がなくては、その天職を全うできないのに、
恥を知らないことこそ、恥の最たるもの。
しかるべき地位にあるなら、自問すべきだろう。

2011年6月8日水曜日

私の(好きな)言志四録 その8

110608

言志録 第8条


性分の本然を尽くし、職分の当然を務む。
此くの如きのみ。


この世に生まれてきたからには、
人間本来の良心を発揮し、自分の天職を全うすることに専心するべし。
自分の魂を磨きあげ、人物を練りあげる。
それぞれの人が、それぞれの与えられた場で、
自らの良知に気づき、その一燈を引っ提げて、世を照らすことに、一生を賭ける。
安岡師の「一燈照隅行」とはこのことと考える。

「性分」「職分」についての所説は
よくわかってないので下記に譲る。

性分とは、五常(仁義礼智信)のことで、
人間が本質的に持っている真心とのこと。

職分とは、孝悌忠信など、他人に対して尽すべき奉仕、
為すべき義務とのこと。五倫五常のうちの、五倫に近いか?
「五倫」は基本的な人間関係を規律する五つの徳目で、
父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信 とのこと。


これまでことわりなしに引用してきている
本文読み下しは、
川上正光氏全訳注の講談社学術文庫より。
解釈も参考にさせていただきつつ、

一斎翁が齢四十二歳より記した言志四録に、
逐条逐一随っていくことで、
同年齢になった自分がこれまで学んで身につけてきた
一燈=志=良知=魂=使命=天職という
自らの読みを確認修正して参りたい。