提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年3月25日金曜日

一燈照隅 萬燈照国

3月20日

わが大湫町の南端、国道19号やJR釜戸駅から北上して、大湫宿にさしかかる手前の高い山、稲荷山の神社での初午の例祭があった。
織田勢の大湫砦となっていた、見晴らしのいいところですが、3年前の晩秋に、忽然とこのお稲荷さん、雄白稲荷神社は焼失してしまい、その翌年平成20年春には社祠が再建され、今春、社殿も作りなおされたのだった。
一体、神社が昼間、燃えて無くなってしまうとは、どういうことか、この暗示を、心に留めて、今も日々生きている大湫人がどのくらいいらっしゃるのかは、わからない。
暦では2月の事が多い、初午を、月遅れの3月に、しかもそれでも雪の影響など考慮されて、3月の第三日曜にある例祭だが、ここまで登る山坂の急なことから、神事のために神社まで登ってくるのは、子どもを含めて例年30人ほど。ムラの人口の1割に満たぬ数が多いか少ないかはわからぬが、淋しさがどうにも感じられてならないのだ。
雪の影響が考えられることもあって、今では、神事の後の 直会ナオライや餅投げは、境内ではなされず、集会所で行うので、山の上までお参りなしに、集会所に直行の人たちもいる。
(今年は、餅投げはなく、餅を皆に配ってました。)
まだ花見には早く、風の寒い季節のピクニックを、盛り上げる方法を考えて、
お稲荷さん(この地方では、炊き込みごはんを円錐形に握った「鳥の子」だが)や、熱い味噌汁でも食べれるといいのだが。

神渡良平先生のHP久しぶりに拝見し、埼玉県小川町の今野時雄氏のことを知る。
「具体的には、昭和 6年から 27年まで埼玉県嵐山町にあった安岡正篤先生の「日本農士学校」を範としてゆきたいと考えています。この学校は残念なことに戦後GHQの解体指令で没収されてしまいましたが、安岡教学は現代の日本に最も求められている教育だと信じます。」
日本農士学校の再建を目指されているところに、共感した。
地域を担う、というか、
自らの周囲を、足下の一隅をしっかり照らすことのできる、一燈照隅の人、
教養ある個人の確立のための、学べる場づくりをしたいと考えている私には、
大湫の地こそ、その場になりうるし、大湫自身がそれを最も必要にしていると、感じられてならない。
今後も、書き続けることで、このテーマを深めてゆきたい。



3月21日

2歳半の次男と、前の御宅に帰省している小学3年になるお孫さんを連れて、旧小学校のグランドへ。(前の御宅のご主人は病後のリハビリメニューを懸命にこなされていて頭が下がる。)
2人のちびっ子はジャングルジムで遊ぶ。次男は、雨上がりで滑るジャングルジムだったが、なかなか、上に登れない。先日、同年代の男の子と一緒のときは自慢げに上に登って行ったのだが。。。お姉さんが一緒のときは少し違うようだ。
ブランコでは、私の前に座らせて、一緒に ゆ~ら、ゆ~ら。狭い両端の金具が腰にあたって痛いのだが、
「タ・ノ・シ・イ・!!」を連呼する息子に、ハッとさせられる。
この十年間、長女や次女、また、長男に対しても、このような時間を過ごすことができてなかったことを反省する。
取り戻せない時間を悔やんでも戻らないが、すまないという気持は伝えつつ、
これからの一緒の時間の過ごし方を取り戻していきたい。

長男は昨年まで所属していた高校の音楽部の定期演奏会に出かけるとのことで、車で送ることに。道中、部のみんなに花束などは?と尋ねながら、代わりに親である自分が、花束届ける手もあるかと考える。
会場に息子をおろし、1人で花屋まで。ふと、花をわたすべき相手は、音楽部なのか?
たしかに体裁は整えることができるし、カッコはつく。しかし、その前に。
花を買うことなど母の日のカーネーション以外めったにしない自分としては、そうすべきか?
なけなしの予算から、花を買ったが、贈り先は、家族と会社のメンバーに。

公と私、どちらが大切かではなく、かっこをつけるでもなく、
まず自分に近いところから、ひとつずつ、一燈を灯していくことを、心がけていきたい。

そのうえで、先日 わが家で初めての快挙、宝くじが当たった(10枚中1枚当たるのより高いもの)のだが、
それは、自分たち家族の楽しみでなく、
この度の義捐金に使わせてもらうと子どもにも伝え、それを子どもたちも納得してくれたのは、有難かった。

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