提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年3月16日水曜日

傍観者だったかもしれない。しかし、生き延びてきたのだ。サバイバー=屍を乗り越えて生き抜く者たちの覚悟

2011年3月11日
14時26分ごろ(自分の覚えでは午後1時半頃と思ってた) 恵那市のオフィスの床もデスクも椅子もが左右にスライドし始めた。何分か続いた気がした。
(その時には、とうとう東(南)海大地震か、と思ったほどだった。)
スカイプでつながっている東京オフィスからの声は、ビルの中にいるのが危険に感じられ、駅前の屋外に避難すると告げていた。

その晩は、11時ごろ帰宅。言葉を失ってしまってます。何をか語らんや。

今日の昼までは、ほんとに今までの延長線上にあると思っていた次の日や来年や未来が、
今日の昼からは、異質な、見覚えのない、しかし、来るべくしてきた明日となっていた。

昨日と同様では、明日は迎えられないのだ、
そんな、覚悟というか、現実の受け入れを迫る、自らの?声によって、
沈黙しているしか術がなかった。

このままでは立ち行かない、そういう事態に直面する時に、いや、その現実をつきつけ、人に受け入れさせるために、しっかり準備を整えたうえで、悲劇は突然やってくる。


3月12日
午後1時から、地元恵那市ではじめて(と当日聞かされました)の合同企業説明会があり、新卒採用予定はないが、今後の準備のために参加させていただいた。

大企業に製品を納める企業とは少し趣が違う、私たちの製造業は、仕事を求めるこの春卒業する人や、来年就職を目指す学生さんたちの印象には、どのように映ったのか? 
心意気は、草創期の松下電器の社長の言葉のように、「製品ではなく(製品の前に)、人(の幸せ)を作る企業」との自負のみで、
思わず熱く語りかけていた。
あの時、右往左往、うろうろしていた、学生であった私自身に対して叱咤激励していた。

そして、今回の大震災の影響は、自分たちの企業活動にも、
昨日と同じ明日を許してくれそうにない、
世界が異質になった転換点に、今、居合わせていると、思い知らされることになるのだ。

20代初めの女子の意欲的な、しかも、素直な瞳の輝きには、希望を見出せるし、癒されもする。


3月13日
日曜日は、家族とともに棲んでいる地域、大湫町の全戸一斉参加の春の奉仕作業。朝8時から11時までの作業。

自分の住んでる家や個人の身の回りでさえ妥協して整備しているのに、皆が共通して使っている道路の整備と清掃を徹底的にやりきろうという意欲は見られない。
溝さらえも、道路に張り出した枝も、枯れ松も、徹底的には完遂できない。リーダーの不在。想いの共有のなさ。
道の両側に広がる、手入れのされていない植林地。過去に先人たちがよかれと、無計画に植えた苗が、子孫の管理能力を嘲笑うように、ひょろひょろと天にむかって伸び、道は日中でも、日の光が当たらない暗闇のままなのだ。

昼は、自治組織の年度末の寄り合いがあり、自律できない地域の現実に、七十後半の檄が飛んだ。。。戸数150戸ほどの、地域唯一の檀家寺を支えるのにも汲々としているわが町だが、そんな小さな町への公の資金投入をまだまだ声高に叫ぶところには、昔から変わらない旧民社系の老政治家の片鱗が健在だったが、
何もない、何もできない、何もする気がない、のないないづくしの、団塊世代に、彼の熱き想いが、少しでも伝わればと思わずにいられない。
(私自身も、この老政治家をたよって、この地に住まわって10年になるのだが、いまだに非力なままである。必ず恩返しさせていただきます、この土地に対して。改めて決意。)

しかし、映像で見る大津波で、人の生活の痕が、命もろとも、奪い去られるのを目の当たりにすると、
ここでの現実と妥協しながら生き永らえることの無意味さを改めて訓え、
このままでは早晩立ち行かなくなるぞ、との声が、抜本塞源の道をこそ、めざすべしと響くのを、止めることはできない。

感謝がないのかもしれない。有難いと思わないで、一日たりとも生きていけるものか。
ローマのゲニウス・ロキのごとく、土地の神、この地の魂があるならば、さぞ嘆き、また怒っているだろう。
土地柄やこの地の持つ雰囲気が、訪れる人に、どう見え、感じられるのか。
この地のゲニウス・ロキのためにこそ、私は生きなければと思う。(中途で投げ出している「大湫風通信」もどうにかします)


3月14日・15日
日本の半分が苦しんで呻いている、現実の日本の中での生活が、これからの日常なのだと、配達不能地域や避難指示地域の言葉が知らしめていた。

中日新聞の夕刊では、吉岡忍氏がこう語った。
「・・・十年前の「9・11」がその後の世界のあり方を変えたように、
この度の「3・11」東日本大震災も日本と日本人のあり方、その見方を大きく変えるにちがいない。
いや、変えないことには、もうこの国はやっていけない。
私たちはみな、生き延びようとする当事者である。」

たしかにそうだ。
「9・11」の半年前に大湫に移り住んだ私たち。
この10年を、まがりなりにも生き抜いてきている私たちだが、
もう立ち行かない、この現実に、
私たち自身が変わることで、現実を変えていくことができると信じて進むのみ。

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