昨年末、小学校のPTAの寄り合いで来年度の副会長(その次の年は会長)ということになってしまった。次女は、この4月から5年生だが、ようやく毎日学校に通うのに慣れた様子。長女は中学にはまだ半年分も通ってない、週に1日か2日くらいか。休学中の長男は、この4月から再び高校2年生をはじめようとしている。これほど学校に適応できてない立場から、PTAの役員をやる意味を見出してみたいと思い、不承不承ではあったが、引き受けることにした。
昨日は 新旧常任委員会ということで、午後7時からの会議だった。間に合うには、勤務している会社を6時半には出発しなければならない。今日はめずらしく15分には切り上げることができ、(仕事が片付いたというわけではない)会議室には一番乗りになってしまった。いつもの調子なら30分過ぎにでも、そっと会議中に席に着くことになるところだが(事実、これからダブルでくる支部長の会議が先月末にあったが、1時間遅れでしか行けなかった)、しかし、早く着くのは、精神衛生上 大変よろしい。教頭先生(だいたいPTAの世話役は教頭さんと相場は決まっている)から最初に番茶をいただいた。いい先例にしたい。
会議では通例、配布資料と首っ引きで、説明が終わるまで、じっと待ち続けて、口を開くのは、会議の前後や、会議と関係なしの世間話だけだが、この苦痛の時間が少しでも、「生きてて良かった」と一瞬でも味わえる時間に、することができればと思う。
そんなこと考えながら、4月の総会の資料を眺めていると、今年度の活動目標案には、
「いま一度、命の大切さを考えよう!!」とあった。通例では、こどもを温かく見守ろう、とか、親と子のきずなを云々、がPTAの役割かと思いこんでいたので、「命の大切さ」という言葉は新鮮だった。
しかも、そのために、「感謝の心」「思いやりの心」「行動する勇気」を育てていくとあり、毎日5分以上親子の対話をお願いされてしまった。
新旧で20人ほどの役員の人たちはどう思ったのだろうか?やはり、説明が終わるのをじっと待っているだけなのだろうか? ただ漠然とスローガンとして通り過ぎてしまうのでは、この提案が与えてくれた新鮮味がもったいないと思え、思わず、共感しますと、賛成の発言をしていた。
いらぬことには、この前のカンブリア宮殿で 羽島の未来工業の社長さんが掲げていて、村上龍がいたく感動していた「常に考える。」の言い切りに触発されていたので、「考えよう!」ではスローガンになってしまうので、「いま一度、命の大切さを考える」としては、と意見してしまった。目標としてはこの方がいいし、自分事として、身に引き付けることができるはず。
ところが、校長さんの機転?かどうか、活動「目標」を、活動「スローガン」にすることで、「考えよう!」は、文字通り、スローガンにされてしまいましたとさ。
PTAの活動目標をこれから会長になる、副会長さんがひとりで考えたかどうかはわからない。しかし、それを活動目標に組み込み、しかも、それが違和感なく、通るような、いまどきの、素直な感覚、今の10代20代(30代も?)のスポーツだけでなく、あらゆる分野で、「魂」が謳われ、皆、素直に感動を求めている、いまどきの感覚は、PTAにも、浸透しているのかと感じさせられた。
(そういう私は40代はじめだし、会長さんもそうだが、)だからかもしれないが、それと同時に、この場に集まった「役員」や「学校」の感覚の動きのなさというか、心が型にはめ込まれていく感覚の健在なのを思いしらされもした。なんとかは頭から腐る?
腐らないようにするにはどうするか?
「PTA」に適応していくか、それとも不適応を楽しんでいこうかと、考えながら、家路への上り坂、車を走らせた。
0 件のコメント:
コメントを投稿