提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年12月5日月曜日

石重し。故に動かず。根深し。故に抜けず。 ~大湫の二十二夜様の今後について~

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広報おおくて12月号(通算305号)用

石重し。故に動かず。根深し。故に抜けず。
~大湫の二十二夜様の今後について~

宗昌禅寺坐禅会世話人 渡邊 和隆

犬山市の明治村で毎日曜日に夏目漱石邸にいらしゃいます。


今年は文化祭の日の晩に開催されました。宿場修景の一環のおもだか屋の板塀完成の記念行事でした。市まちづくり担当課のご出席もいただき、文化祭に引き続いて、お茶の会の皆さんの呈茶ではじまり、毎回名古屋から薩摩琵琶伝承者の井村右水さんの琵琶弾奏、宿場の通りを竹灯籠が照らしました。ご尽力いただいた皆さん、ご参加いただいた皆さんに感謝申し上げます。



二十二夜様のお立ち待ちは、近在の地域でも大湫でも五十年ほど前までは行われていたのでしょうか。地域の年中行事の再生復活の試みとして二〇〇四年開宿四百年記念の前年のプレイベントがはじまりでした。宿場の風情に合わせた琵琶や抹茶、和服の婦人たち、
お立ち待ちの願掛けと地域の盛り上がりへの想いが重なり、宗昌寺に如意輪観音二体も寄進した江戸時代の女人講のごとく女性(その頃はこれが流行りでした)の力の集結で、おおくてを元気一杯に・・・そんな始まりから、今回第八回目を数えました。これまでの会場は、おもだか屋、丸森邸、宗昌寺、神田公民館、足又公民館、と特製の竹灯籠と薩摩琵琶の音が、大湫中の夜に趣きを加えています。
俊典先生の百話では、旧暦の二月と七月の二十二夜様の夜に二十二夜待ち講の主尊仏如意輪様の前に集まってお立ち待ちがなされていたようです。・・・戦争中は(「里の秋」の歌さながら)出征した兄弟父息子の無事の帰還を願掛け、また、座ってはいけないとの母の言いつけを守って、遅い月の出を往来を歩き続けて待った思い出もまだまだ残ってます。
月の出を待ちながら、皆が(それぞれの家の中でなく)外で寄り集まって、あれこれと井戸端談義のように話の花が咲いていたのでしょうか。一時期は映写会が小学校のグランドで開かれたようです。(これは夏祭りの前身だったかもしれません) 二十二夜様は、皆の娯楽の場だったのだと思います。皆が寄り集う場は、地域の娯楽の場でもあったのですね。
婦人会も、江戸期の女将さんたちの女人講から引き継がれながらも、女性の会として、解散されてしまいましたが、お寺の御詠歌や観音講、お休み処を盛りたてる皆さん、さまざまなサークル活動で、ご婦人たちの寄り集う場は引き継がれているのでしょうか。
宿場の経営が地域の一体感を否応にもたらした江戸期、農村また山林経営が生活と一体だった明治から昭和にかけても、地域が皆の娯楽を提供しながら、大家族のような(それゆえ大変だったとも思いますが)村だったのでしょうか? お蚕さんや味噌づくりも田んぼや山林の管理と同じく共同作業でしたね。
今、個人や各家庭の個別の娯楽を越えて、
地域の人が共有する娯楽の場は、あまり必要とされてないのかもしれませんが、寄り集うことも必要なくなってきてるのでしょうか?
親のみならず、子どもたちも朝から晩までよそで過ごして、夜の寝食を各家庭で過ごすだけの暮らしになっていないかと反省してます。釜戸の学校で過ごす子どもたちと、その学校を取り巻く地域を、瑞浪市の、または東濃の広がりの中でとらえて暮らすようになってきています。それだからこそ、すぐ足元の自分たちの生活環境である地域が、通過駅のようになってはならないですし、心身を育む気持いいものにするためにも、近くに住み暮らす者同士こそ、寄り集う必要は増しているようにも思います。
表題の言葉は、岩村藩出身の大儒佐藤一斎翁著「言志晩録」の言葉です(二二二条)。
「人は当に自重を知るべし」と続きますが、
自分のたちの重さ=価値=与えられた使命・天命の重大さを自覚することが必要なのだと心から思います。それは、大杉が身をもって示してくれている、時間と歴史の重みや、千三百年の根の深さへの畏敬の念でもありますし、四百年以上の先人からの営みの価値を、
この土地に住み暮らす自分たちの今の生活やあり方に見出せないかということです。
週末には、また平日でも、中山道を、大湫の宿場や里山を訪れる人たちが、お休み処やおもだか屋を遠くから訪ねて下さいます。何を求めて、交通の便がいいとも思えないのにわざわざこの地を訪ねてくるのか、そのことを改めて思いなおし、有難いと思うことができると、自分たちのこの土地への見方が変わってくると思います。
今年の薩摩琵琶で謳われた宝暦治水は薩摩人が木曽三川の分流事業に身命を捧げてくれたのでした。(十年前には、一斎さんは江戸(東京)の人だから岩村には関係ないと言われていたそうですが)岩村の一斎像は岩村に縁もゆかりもない人たちの厚志で建立され、一斎先生は岩村の偉人であるとともに日本人の誰もが敬愛しています。(恵那市では小学生も知っていることはまた素晴らしいことです。)
おらが村を日本や世界の中でみて、そこに貢献しうる何かを見いだせないでしょうか?
これは手前味噌ですが、開宿四百年を記念してその年始大寒からはじまった宗昌禅寺坐禅会も 先月で八十回を数えました。中断もありましたが毎月一回、町内だけでなく、市内や他市からもおいでいただきます。近隣地域に定期的にやっている坐禅会は多治見虎渓山とここしかありません。四百年以上の歴史ある開基保々宗昌さんの名のついたお寺が、近隣の青壮老の修養の場となっていることの意義はこれから価値が出てくると信じてます。
今月はいつもの第四土曜を変更して第三土曜の十二月十七日午後七時からです。
こちらも是非一度足をお運びください。

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