提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年4月18日月曜日

其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う(「大学」)


110414

眞山民 作  山中の月

我は愛す、山中の月
炯然として、疎林に掛るを
幽独の人を 憐れむが為に
流光、衣襟に散ず
我が心、本、月の如く
月も亦、我が心の如し
心と月と、両つながら相照らし
清夜、長しなえに相尋ぬ


110415

 今日のコアバリュー「すべての人を好きになり、すべての人に好きになってもらう」

18あるサイバーストークのコアバリューの中でも、1,2を争って皆に苦手感を感じさせてしまうもの。
「そりゃ無理でしょ~」と、さらっと流してしまうか、
これに立ち向かう?食らいつく?、少しでも近付いてにじり寄る姿勢を見せられるか
分かれ目のコアバリューだ。
「我れは当に人の長処を視るべし。人の短処を視る勿れ」とは 佐藤一斎翁 言志晩録70条 だが、
呂新吾の呻吟語にも
「その心を大にして、天下の物を受け。その心をむなしうして、天下の善を容れ。」とある。
「むなしう」とは、空しい、であり、虚しい、であろう。
「無」とは、18のコアバリューを総括する言葉として、先生の掲げられたものだが、
まさしく この「無」に通じるありかたが、全ての人を好きになり好きになってもらう、なのだろう。


「今月の義塾嶺西講義録」

ACのCMでおなじみの金子みすゞさんに詩について
(私と先生の出会いの一つのきっかけが、丁度10年前の、
みずゞ生誕の地長門市仙崎町での酒屋保存問題だった)
以下は仙崎町に提出した先生の請願文。

             <旧酒屋(現 渡辺家) 保存に関するお願い>

       築120年と言われる渡辺家を保存・修復し「金子みすゞ記念館」として、
      仙崎の住民、訪れた人達を温かく包む建物にしていただけないものでしょうか。

      1) 仙崎の町並み景観というだけではありません。
      2) この渡辺家を保存することは、この後、仙崎の町並に対する意識を呼び起こすことになります。
      3) 渡辺家を残しその使い道を考えることは、仙崎の町のあり方、祭りのあり方等、これから若者達がどうやってこの仙崎と関わるかということのきっかけになります。

      「金子みすず館」は、展示するだけのものでいいのでしょうか? 
      観光客が仙崎に訪れるのは「みすずの心」に触れるためではないでしょうか。
      もし、展示というなら、仙崎の町全体がその詩の心を表すものであるべきです。

      渡辺家は、120年を生き延びた一つの歴史です。 土間があり、天井が低く
      一つ一つが小さい部屋のつくり、急な階段、薄暗い部屋。 これが日本の家屋
      なのです。この家屋を子供達に体験させてやろうではないですか。 
      「金子みすゞ」というなら、まさしく この家ではみすゞと同じ体験が出来るのです。

      この部屋に図書を置き、好きなところで本を読むことが出来る・・・・
      お年寄りの方々が「ねーま人形」やお手玉など、手作りをしていただければ、
      そこを訪れた人達とコミュニケーションが生まれるでしょう。 修学旅行や、
      校外学習で訪れた子供達がこの家で学習することも出来るでしょう。 

      少なくとも、みすずが実際に見て、「角の乾物や」の詩に出てくるもので唯一現存
      しているものでもあります。 
      大正時代の建物を真似て作ったとしても、それは所詮、にせて作った平成の建物で
      あり、ニセモノでしかありません。木の色、土間の匂い、120年間のほこり、存
      在する雰囲気というのはいったん壊してしまったらもう二度と元に戻すことは出来
      ません。

      仙崎を訪れる人達は、のんびりとした空気・普通に生活している雰囲気にとても癒
      やされるのです。観光化したところは全国どこにでもあります。 また、古い建物
      も見るだけというのはあります。
      ですが、「いらっしゃい」「ただいま・・」というおもてなしの雰囲気を残してい
      る場所はどこにもありません。 この渡辺家は生活の雰囲気がそのまま残っています。
      是非残していただいて、ここを「住民全体の家」 訪れる人は「みんな仙崎のお客様」
      という風に出来ないでしょうか。 

      大切にしたいと思う心をどうぞおくみとりいただきますようにお願いいたします。
      皆様の御賛同が得られますように。

残念ながら建物は解体されてしまいました。現在は跡地に記念館がたっているようです。



こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。


大漁

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するのだろう。


(1時間遅刻)・・・先月話題に上がった三好学氏顕彰のフォーラムは、来月の開催は調整つかず、今秋をめどに開催見込みとのこと。
山桜の研究でも著名な植物学者三好氏が、調査に訪れた茨城県桜川市(「西の吉野、東の桜川」と平安時代より謳われていた)の磯部稲荷神社の宮司さんを招くほか、
多彩なパネリストで、天然記念物の保存とともに「景観」という言葉でもって、人間と環境との不可分の関係、どのような感性で自然と向き合うかを追求された三好学の顕彰がなされる。

人間は環境をつくることのできる存在でもあるが、
自らもその一部である大自然の、または、天の理のあらわれである自然を、
あまりに軽んじてはこなかったか?
~ 木をやたら軽々しく伐ってはいないか? 水の流れの曲がっているところを安易に真っ直ぐにしてないか?

天や大自然の表わしてくれる厳然たる真実がある。
その一部である自分の真実に気づくこと。
それは、「利他」の精神である。ひとたびその「使命」に気づいたならば、
悩みや迷いは捨てるべき。
捨てる覚悟でもって、信ずるのみ。
レールが敷かれたように、眼前が開けてくる。自らの進む道が拓かれてくる。
それが「自然に沿う」ということ。

自利利他とは、「忘己」利他である。
己を無視するのではない。
魂の次元から、自分を眺める、視る視点であり、それは
神仏に拝んでいる一瞬、(拝む時には、神仏を通して自らに対して拝んでいる)
そうした位置に自分があることに気づくことがある。

上のあり方は、
自らを満たした後に、他を満たす。
自分が十分に一杯にならなければ、他に与えることができない。
という考えを一蹴する。そうではないそうだ。
「自らが先、己をまず満たしてから」ではないのだ。

呼吸が、まず息を吐き出しすことが先で、自らを空にしたときに、
ちょうど呼び水のように、息が入ってきて、その空の器を空気が満たしてくれる。
自分を忘れる、とは 自分を空にするということなのだ。

それで気づくことは、
修養とは、
そのように自らを空にすることができるようになること。
また、その空の器を、自らの器の限り大きくすること。
この器の大きさが、その個人の持ちうる仁愛の大きさになるのか。


110416

月半ば、4月の第2週 春爛漫である。
3月末からアセビが藪を白く染め、山腹をタムシバ(コブシの仲間)が白い星雲のようにそこかしこを白く輝かしていた。
ここにきて、
谷間のシデコブシが白やピンクに満開、ソメイヨシノばかりか、ヤマザクラも競って咲き乱れるということがふさわしいほど、
花々が百花繚乱の今年の春。

11軒の小学生の親が集まり、「大湫子ども会育成会総会」。
小学校閉校後7年、確実に活動の領域を狭めてきている子ども会の活動は、
地域の親相互の親睦団体としての影も薄くなってきている。
来年度からは、小学校区の子ども会連合会の中の一子ども会として位置づけられることになる。
まだまだ自分たち子育て世代は、自分たちの事でいっぱいいっぱいで、
子ども「会」のことも、自分たちの住む地域での自分たちの果たすべき役割についても
考えて行動できるようにはなり得ていない。
世の中に求めるところがまだまだ多い。


110417

「釜戸小学校PTA総会」
会員軒数131 出席者数は200人ほどか。
地元の市議会議員、区長会役員などご来賓に迎え開催。
司会進行者の立場は、実りある会というよりも、つつがなく滞りなく会が進む方に価値を置く。
新会長のあいさつの中、
「~のせいで」と、他に求めての不満を漏らすのではなく、
「~のおかげで」と、感謝をもって事に当たることを強調された、
のはさすが。
自らの経験を価値あるものにしていこうという心構えは見習うべし。


「第38回瑞浪市吟剣詩舞連合会発表会」
私の参加している流派は今回進行役を分担していたが、
朝からの準備を含めて、先輩達にお任せし、
昼前かろうじて大御所の先生方の発表よりも前に駆け付けることができた。
来賓の市長は地元釜戸の方だが、まだ帰られる前で、
拙い吟を披露する羽目となった。

廣瀬淡窓作 親を思う(桂林荘雑詠 諸生に示す その二)
遥かに思う、白髪、門に倚るの情
宦学、三年、業、未だ成らず
一夜、秋風、老樹を揺かし
孤窓、枕を欹てて、客心驚く。

参加は50名ほど。最年少はおそらく自分で、他に50代が男女数名か? あとは推して知るべし。
第1回目はおそらく1973年。自分がまだ学校にあがる前だが、当時の親の世代や祖父母の世代から始まっているこの会は、
昨年でも、昼食に休憩あり、夕方に懇親会あり、最盛期の吟者演者の数は100を下らなかったのではないか。
現在、自分のようなペイペイが昼過ぎ遅れて駆け付け、先輩がたの間に混ざって、
一人前に発表させてもらえるような状況は、あまりいい傾向ではないだろう。
会員の勧誘を含めて
会にきちんとした貢献ができるようにならねばと、
浅い息継ぎの反省ともども家路についた。


夕方は PTAの懇親会参加予定だったが、
東京は府中の義母が入退院の時期でもあり(手助けに行けず忸怩たる思い)、
遠慮させていただく。

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