提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
“一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂えることなかれ。只一燈を頼むのみ。” 佐藤一斎「言志晩録」十三条

2011年5月9日月曜日

君子素其位而行不願乎其外 君子無入而不自得焉



110429

雨ニモマケズ / 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク / 決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシズカニワラッテイル

一日二玄米四合ト / 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ / ジブンヲカンジョウニ入レズ二
ヨクミキキシワカリ / ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ / 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東二病気ノコドモアレバ / 行ッテ看病シテヤリ
西二ツカレタ母アレバ / 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南二死二ソウナ人アレバ / 行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北二ケンカヤソショウガアレバ / ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ / サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ / クニモサレズ

ソウイウモノニ / ワタシハナリタイ

このあまりに有名な言葉を引きながら、
わが同郷の(新潟六日町)渡辺謙氏は、
「絆」を中日新聞掲載記事で説いていた。


その新聞記事を見た後、
ふるさとがえり」という
映画を恵那市文化センターに観に行った。
高校生の長男も一緒に。

7年前の市町村合併を受けて、
市民の「心の合併」を企てた若者たち?の制作した映画とのこと。

恵那を映画で笑顔にしよう!! 「えな『心の合併』プロジェクト

最後に舞台挨拶?(朝一の上映では俳優さんたちの舞台挨拶があったそうで、)
昼からの部では、この映画プロジェクトを立ち上げられた行政マンさんが
挨拶されていた。

HPでは、

行政や地域経済の担い手が中心となり、
様々なまちづくり活動が始められていく中、
「これでいいのだろうか?本当に地域の意識はひとつになるのだろうか」
と疑問を抱く行政マンがいた。何とかして、地域や世代を超えて、
人がつながることは出来ないのかと思案していた。
その頃に、とあるシンポジウムで出会ったのが、
映画製作会社FireWorksが推進する「映画を使ったまちづくり」の手法だった。

とあるように、

映画づくりと まちづくり とが同時進行することが
期待されているので、

映画としてどうだったかと聞かれると、
???おもしろかったが、2時間半は長かった。

消防団、子どもたちの亀の子団、恵那市の印象的な風景の数々、青年の夢・・・
いろいろ焦点を当てて見直すことができる映画と思う。
東北巡業もあるとのこと。

むしろ、この映画づくりをドキュメントしているとのことで、
こちらの方が、映画=まちづくりのドキュメンタリーとして、
楽しみだ。
(今足りてない分、これから必要な分で1400万円。映画の前宣でやっていた、タイトルは
「監督!赤字分は折半でどうですか。~「ふるさとがえり」アナザーストーリー~」)

映画の中での
「土地も 親も 人は選べない。むしろ、選ばれるのだ。」
「どこで生きるか、ではなく、誰と何のために生きるかが大事ではないか」
との鶴光師匠(和尚役)の言葉は、
印象に残っている。

人は何のために生きるのか、というテーマを考えるときに
その考えを深めてくれる材料を提供してくれる、
映画であり、映画づくりであると思う。

こだわりを捨てて、愛することができるかどうか。


110430

ETVでの辺見庸氏の言葉をどう消化するか。
この度の大震災に対して、どう詩人としてメディアの中で語ることができるか
絞り出しながら紡がれた言葉をどう理解していくか。


今回の出来事に対してもったおそれの念、
恐ろしい、よりも、おそれかしこまる方の畏れ、畏怖の念。

3・11は、決して天罰でも黙示録的事象でもない。
われわれに根源的な認識上の修正を迫る出来事ではなかったか。
避けられないこと(the inevitable)
あり得ること(the probable)
あり得ないこと(the impossible)
あり得ないことのはずが、宇宙の一瞬のくしゃみのようにして起こりうること。

われわれは、もっと「予感」すべきだった。

「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉(文化批評と社会)を媒介に、
それまで、アウシュビッツのような苦難や残虐性、野蛮さを前提にしていなかった
コミュニティの文化が、そのあり得ないはずのことが現実となってしまった後で、
もう一度言葉を捉えなおす作業が必要だということ。

外部の廃墟に対する 内部を語ることのできる、新しい内面をこしらえることのできる言葉が必要。

絶望の淵でとるべき態度は「誠実さ」である。
それこそが「救い」であるし、例外なる個人のとることのできる態度。
カミュの「ペスト」に表されていること。
「日本人の精神」のみに回収されるわけではない。

死体としてモノ化しうる人間。
被災地の映像から死体を排除したことには、死者への敬意を感じることができない。

「絶望」できるのは人間の能力である。
その絶望をもう一段深めること、深めつつ、それを言語化していくこと。
死んでしまう方が当然で、生きていることのほうが偶然である、
その中で生き残ってしまった人間のなすべきこととは?


110501

またまた恵那市文化センターに
未来の食卓」という映画を観に行く。
今度は妻と。

2008年のフランスのドキュメンタリー映画で
「お金より命が大切だと
南仏の小さな村から始まった奇跡の実話」
「全ての学校給食を自然の味(オーガニック)にしようと、
南フランスの小さな村が立ち上がった。」

高校生の長男が生まれて間もなく、
重度のアトピー性皮膚炎だったことから、
名古屋で暮らし始めていた
若夫婦はせっせとオーガニックフーズを購入し続けていた。
動物性食品をはずして、夫婦とも顔が変わるほど痩せてしまったこともあり、
幾多ある治療法を試しながら、
毎晩血の海となるシーツから解放されたのは
小学校にあがるころのことだった。
長女次女と女の子にはアトピーの症状がなかったことと、
経済的にオーガニックを維持していくことの困難さから、
以降、わが家では縁遠い話題になっていた。

瑞浪は大湫に移り住んでからも
地元でも低農薬低肥料の志向性はあるのだが、
除草剤を含めた全体的な流れに
抗う主体的な動きがとれていたわけでない。

あえて忘れていたというべきか。
良心とともに覚醒されたようだ。

映画を無料で自主上映してくれた
岩村にある 恵み自然農園さん
美濃ふるさと企画さん
には感謝。

君子素其位而行不願乎其外
素冨貴行乎冨貴
素貧賤行乎貧賤
素夷狄行乎素夷
素患難行乎患難
君子無入而不自得焉(「中庸」)

素行自得の言葉通り、

与えられた、即ちそれは、選ばれた 環境の中にあって、
どれだけ最善を尽くすことができるかどうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿